高山佑貴

季節の記憶(仮)の高山佑貴のレビュー・感想・評価

季節の記憶(仮)(2014年製作の映画)
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『季節の記憶(仮)』只石博紀監督を最終日前日に見てきた。先に言うと、秋の後半あたりから酔ってしまい、冬はチラチラとしか見られなかった。また、上映後の監督との質疑応答で質問させていただけた。事前情報まったくなしで見に行ったので、とんちんかんな質問になってしまったが、詳しく答えていただけたので嬉しかった。
というのも、私はてっきりこの映画が、何も知らない人にカメラを適当に持たせて撮影したドキュメンタリー寄りの作品(見てないがリヴァイアサンのような)だと思っていたが違っていた。なので、監督の「テイク」という言葉が出てきたときに面食らってしまった。しかし、NGにしたテイクがどのようなものだったのか教えていただいき、この映画の本質に少し近づくことができたように思う。

先程わたしが騙されたように、この映画は、冬に特に表れているようなフェイクドキュメンタリーだ。夏などはカメラを適当に持ち歩きバーベキューを楽しむ若者たちというフィクションが巧妙に作られており、そこがひとつのリアリズムを形成していてる。そしてこのあと書くが、それは映像的な奇跡の演出に一役買っている(夏編から最初に始まる)。

さて、この映画のフェイク性に関しては映画の一番最初のシーン(?)にしっかりと表れている。まず役者と演技指導する監督が出てきて、役者が画面にまっすぐおさまっている。私たちはこの画面をオフショットのように感じる、演技が終わり、撤収が始まっても画面は終わらず、思っていたカメラと視線が分離する。非常に示唆的なシーンだ。またタイトルの「記憶」という言葉も非常に良く選ばれているように思う。

ところで、この映画のいくつかの瞬間を私は非常に美しいと思った。そしてそれに関して、カメラを操作する人物が変わるというコンセプトは、さして重要な事ではないのではないかと思う。重要なのは、カメラがランダム(カメラマンのランダムではなく、手持ちのランダム)に暴力的に持ち運ばれ、それはまさに、身体を削がれ、目玉だけなり持ち運ばれているような感覚、混沌の映像の中に目玉をポイと投げ出され(それを実現するのは大きなスクリーンの映画の暴力によって、この映画が大きなスピーカーの音の暴力であるように)そしてそこからカメラが置かれたり、何かを奇跡的にとらえることで、混沌の中から水面へと上がって息を吸った時の開放感ように、我々は混沌の中にいたからこそ、とんでもなく普通の画面をとんでもなく美しいと思えるのではないか。赤ん坊が隙間から覗くこと、男女が2人並んで画面におさまっていることすら奇跡のように美しい。
さて、先程書いたように、これら奇跡は、二重に作られ、強化され、演出されている。1つはフィクションによって。1つは身体によって。ここがこの映画を複雑に厄介にしているように思える。その厄介さとは制作者のある種の不安のように思える。一番最初のシーンや、偶然の音楽やナンバープレートの1(選択)のダサさを喋らせる事の不安。また、なによりも、フィクションを選択することの不安に表れている。そしてこの不安こそがこの作品を特別なものにしているように思えた。
ところで、感想を書かせていただいたが、これらは夏編に焦点をかなり当てた感想かと思う。というのも、夏編が最初で体力もあるし、いちばんフェイクへの覚悟が強いからだ。冬編は今考えればはっきりとフェイクドキュメンタリー寄り、春編などはどちらかといえば練習したチームのダンスのような何かを感じた。『季節の記憶(仮)』は一筋縄ではいかない。語るべき作品だ。そして何よりも映画的である、それはなぜなら、映画が奇跡を演出してきたからだ。もう上映は終わりのようだが、いつか上映される時は是非。覚悟を決めて前の方の席で!