Sen

マルクス・エンゲルスのSenのネタバレレビュー・内容・結末

マルクス・エンゲルス(2017年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

Memo

・作品は大まかにいって4人のプレイヤーが主軸となって展開される。マルクス、エンゲルス、イェニー、そしてプルードン。印象的だったのがプルードンとマルクス(と、エンゲルス)の対比で、マルクスは論敵を徹底的に叩き潰そうとしてせっかくの機会をぶっ壊したりとか、とにかく「アク」が強いのに対し、プルードンは論敵であれど関係を壊さない。マルクスはプルードンに二つの顔を認め、プルードンの、今風に言えば「学問と政治」の断絶を、批判する。そして、そこから逆説的に、マルクスとエンゲルスの、「学問と政治」の接続が描かれる。マルクスとエンゲルスがブルジョワ階級の人間であることにも光が当てられており、イェニーへの注目はなかなかなされないこともあって光る。そしてなにより、マルクスとエンゲルスの怒り、そして真面目さを真正面から取り上げていた。

・マルクスとエンゲルスは、本当に変えることについて、誰よりも真剣であろうとしたし、だからこそ、自分たちの生きる社会を把握するための経済理論にこだわっていた。そして事実、あの2人の物語には、そして『共産党宣言』には、否定しようのない真っ当さがあった。そう、これは決して「若さ」を描いた映画なんかじゃない。あからさまな搾取を目の当たりにし、また自らがその加担者である家柄であるがために葛藤し、本気で変革を志向し、そのためにこそ現実を把握するための理論を求めたのが、マルクスとエンゲルスだ。その2人が、同時代のあまりに雑多、多種多様な思想潮流との共鳴・対抗関係のなかで、人びとに訴えかけるためのマニフェストをつくった。プルードンとのコントラストで描かれているように、マルクスとエンゲルスの姿は、単なる夢想家ではない。「マルクス・エンゲルス」は、真剣さゆえに経済理論を追求する2人を描くことによって、その先にある資本主義理解の古典である『資本論』への道筋を、確かに示していた。

・21世紀、日本。こんな時代に本気で平等を語るのは、あまりに虚な気持ちにさえなるだろう。格差が拡大し、貧困という言葉は先進国であっても決して他人事ではいられなくなっている。社会保障が削られる一方で自己責任が説かれ、それを裏目に金持ちがさらに金を設けている。狭いブースで面接官が興味もない質問リストを復唱し、終電では酔っ払いがガキの胸ぐらをつかみ、セクハラをが国家レベルで是認され、路上では特定民族へのヘイトスピーチが高音で垂れ流される。挙げ句の果てに言われるのが、「日本は平等な国です」みたいな、いつぞやのありもしなかった時代のノスタルジーだ。テレビからは何々学園の文書改ざんが明らかになりましたとか、某ジャニーズのトップアイドルの強制猥褻罪のニュースが聞こえてくる。隣国が平和への道を歩み始めたと思ったら、自国の首相は必死なツラをして北朝鮮の危機を煽っている。/これらの問題を全部「資本主義」なるものに還元するのは、かなりズレた態度なのだろう。だが戦後の経済繁栄や福祉国家の努力を通じても、不平等という関係それ自体はいまだに終わっていないし、そのコアにあからさまな経済格差があって、それが何かしらの因果であっても、資本主義の1つの結果であることに疑いはない。だから、いま、本気で資本主義とは何かということを理解したい奴がいるのだとしたら、賛否にかかわらず——というか、資本主義者であるならばなおのこと——、改めて、マルクスとエンゲルスの時代の、その「迫力」を目の当たりにするべきだろう。少なくとも、資本主義のある限り、批判思想としての社会主義が消えることもないのだから。
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