シゲーニョ

トゥルー・ロマンスのシゲーニョのレビュー・感想・評価

トゥルー・ロマンス(1993年製作の映画)
4.1
「長編映画10本撮ったら、映画監督を引退!」と公言するクエンティン・タランティーノだが(笑)、これまでメガホンをとった作品のうち、半分近くの4作は、“強い女性”というか、“気合いが入った女性”が主人公だ。
[注:「キル・ビル(03年/04年)」は前後編併せて1本とします…]

「パルプ・フィクション(94年)」でも、アマンダ・プラマーがティム・ロス演じるチンピラとファミレス強盗に打って出たりするが、ハッキリとタランティーノの“猛女路線”が始まったのは「ジャッキー・ブラウン(97年)」からだろう。
儘ならない人生に溜息つきながらも、決して心折れることなく、愚劣な中年男たち相手に立ち回るパム・グリアの姿は、今でも鮮烈に覚えている。

続く「キル・ビル」の主人公ブライドや「イングロリアス・バスターズ(09年)」のユダヤ人のショシャナは、愛する者を殺され、据わった目の奥に復讐の炎を宿す女性だったし、その間に撮られた「デス・プルーフ in グランドハウス(07年)」も、スピード狂の殺人鬼オヤジに虐められた女性3人組が倍返しするハナシだ。

まぁ、監督デビュー作となる「レザボア・ドッグス(92年)」から、ほぼほぼ“男のしょうもなさ”を前面に描いてきたタランティーノなのだが、彼の強い女性に対する“フェティッシュ”は実のところ、映画監督を夢見るオタク時代の随分昔からあったもので、その証となるのが、20代半ばに執筆された脚本、本作「トゥルー・ロマンス(93年)」。

本作の主人公クラレンス(クリスチャン・スレーター)は、貧乏で冴えないコミックブック店の店員。
B級映画とエルビス・プレスリーをこよなく愛する優しい男が、店長から誕生日祝い(!!)にと差し向けられた娼婦のアラバマ(パトリシア・アークエット)と恋に落ち、血みどろの逃避行をスタートするというストーリーだ。

本作は、タランティーノが女性との“True Romance(真実の恋)”に無縁だった時代に、執筆された脚本を下に作られている。

登校拒否を繰り返し、15歳で高校をドロップアウトしたタランティーノは、ポルノ映画館でのモギリやエルビスの物真似芸人を経て、20歳を過ぎた頃、カリフォルニアはマンハッタン・ビーチのビデオ屋に職を得る。
唯一の取り柄といってよかった映画の知識をそこで更に深めつつ、仲間たちと8ミリ自主映画「My Best Friend's Birthday」を撮り始めたタランティーノだったが、経験不足のため完成するに至らず…。
(注:編集中に火事の被害に遭いフィルムが焼失したという説もあり。ちなみに、親友の誕生日にコールガールを派遣するという内容のコメディーだった…)

ちょうど同じ頃、ビデオ屋の先輩店員だったロジャー・エイヴァリーが「コミックショップの店員が連続殺人鬼の実録ドキュメンタリーを撮る」というシナリオを執筆していたが、なんと途中で興味を失い(!?)、タランティーノに譲渡。
これにタランティーノは「My Best Friend's Birthday」のプロットを加えるが、シナリオが500ページに膨れ上がってしまい、泣く泣く二つの作品に分けることになる。

それが本作「トゥルー・ロマンス」と、後にオリバー・ストーンが監督する「ナチュラル・ボーン・キラーズ(94年)」なのだ。

両作に共通するのは、いつ暴発するかわからない火薬庫のようで、その反面、鋼のような強い意志を持ち、心底惚れたオトコのためなら、命を投げ出すことも厭わない聖女のような、強いオンナだ。

本作だけに絞れば、20代半ばの(たぶん)童貞青年だったタランティーノが描いた夢=「100%、こんな駄目なオレに尽くす女性」、それがアラバマなのだろう。

本作は、煌びやかな巨大オフィスビル群と、それに相反するかのような、失業者が溢れ活気を失った街角を映しながら、アラバマのモノローグから始まる。

「100万年考えても、
 たぶん、このデトロイトと
 “True Romance(真実の恋)”が結びつくことはない。
 でもワタシはここで、“真実の恋”に出会った….」

初鑑賞時、このモノローグを耳にし、しばらくの間、自分を悶々とさせたのは、偏ったジャンルの映画や漫画、音楽にしか興味のないギークな童貞野郎が、なぜ、金髪の若き美女に惚れられたのかということだ。

ただし正直に申せば、他者から見た当時の自分が、どちらかと云えば「クラレンス派」であったことは否定しない…。

劇中序盤、バーで、連れの女性(「許されざる者(92年)」で傷モノにされた娼婦を演じたアンナ・トムソン)に、プレスリー愛を語り出すクラレンス。
「オレはオカマじゃないが、
 エルビスはどんな女性より美しかった。
 オレはこう思ったよ…。
 もし万が一、男と寝ることになったら、
 エルビスと寝たいとね」

さらにプレスリーのウンチクを上機嫌で語ったクラレンスは、千葉真一の「殺人拳(74年〜)」シリーズと志穂美悦子の「女必殺拳(74年)」の3本立てを観に行こうと誘うのだが、「へ?デートで空手映画なんかに誘うわけ? フザけんな!!(怒)」と、これまでの長〜いオタク話に付き合わされたストレスも併せ、怒り心頭に発した女性は店を出ていってしまう。

これは大抵の女性の方からみれば、正しいリアクションだと思う…。
題名に反して「トゥルー・ロマンス」とは、タランティーノの「幻想のロマンス」なのだ。

その後、誕生日にホームレスだらけの場末の映画館で、何時間もゴミ映画(←褒めてます!)を観続けるクラレンス。その姿はオールナイトのポルノ映画館で独り寂しくスクリーンを観続ける「タクシードライバー(76年)」の主人公トラヴィスと重なってしまう。

さらに、色々あって、アラバマと相思相愛になったクラレンスが彼女の服を取りに、コールガールの元締めドレクセル(ゲイリー・オールドマン)のもとに赴くシーン、そのイメージの源泉も「タクシードライバー」であることは間違いない。

カチコミを決行するか否か、鏡の前で迷うクラレンスの背後に突然、プレスリー風のメンター(ヴァル・キルマー)が幻のように現れ、「ポン引き野郎が、オレたちと同じ空気を吸ってヌクヌク生きている。許していいのか? ぶっ殺そうぜ!」と託宣する。
これは「タクシードライバー」のトラヴィスが25口径のピストルを握って、「オレに言ってんのか?」と鏡の中の自分に向かって凄んでみせるシーンとソックリだ。

映画で使われる鏡とは、人間の内面を象徴的に表す、見かけと異なる人間性を暴き出す一つの手法と言える。

当たり前のことだが、鏡は実際に見ることが出来ない自分の姿を見ることができる道具だ。
しかし古の時代から神聖視されてきたように、「真実を映しだすモノ」である一方、「人をたぶらかし、虚飾へと駆り立てる悪の源」と見做されてきた道具でもある。

映画の中で描かれる「鏡に映った自分を見つめる」主人公たちは、皆、勝手に孤独だと思い、コンプレックスを感じ、自分のアイデンティティーを見失いそうになっている人物ばかりだ。

「市民ケーン(41年)」「上海から来た女(47年)」「真夜中のカーボーイ(67年)」「サタデー・ナイト・フィーバー(77年)」「アメリカン・ジゴロ(80年)」「マトリックス(99年)」「キック・アス(10年)」、そして「スター・ウォーズ/最後のジェダイ(17年)」のレイ…。
虚像、幻像に語りかけるしか、自分が生きている価値を確認する術がないのだろう…。

クラレンスは「タクシー・ドライバー」のトラヴィスと同じようなM65のフィールドジャケットを着て、ドレクセルのアジトに乗り込む。
その時、クラレンスの胸の内にはトラヴィスのような「社会に適応できない情念」が渦巻いていたのだろうか。

自分にはそう思えなかった…。

クラレンスもトラヴィスも、自分の恋した天使(=女性)を自由へと解き放つために狂気の行動に出るが、トラヴィスが世間への「嫉妬と怒り」を幼い娼婦を虜にするピンプへと集約していくのに対して、クラレンスを突き動かすのはアラバマへの「純粋な恋心」だけだ。

もちろん、彼女を働かせるピンプへの憎しみもあっただろう。
映し出される銃撃シーンは、たしかにモテない男が女性にフラれた腹いせに売春宿を襲撃する「タクシードライバー」のラストそのものだ。
しかし、本作「トゥルー・ロマンス」はここから始まる。
クラレンスはアラバマと結婚し、マフィアや悪徳警官を相手に戦いながら、自由の地を目指す冒険の旅に出る。

クラレンスはトラヴィスのような未成熟な男ではなく、荒んだ社会を只々諦観するのではなく、ルールを逸脱せずに、それでいて、自由に生きている感じがする。

アラバマとの熱い一夜が明け、彼女が娼婦と分かり、言い放った言葉。
「昨夜は最高だったよ。
 オレが君みたいな素敵な娘にモテるはずないもんな…。
 一瞬、チ○ポのついてる女性かと思ったよ(笑)」

怒るそぶりを見せず、先ずは相手を立て、自分を卑下するかのようでいて、軽いジョークで包めてしまう。
受け流す力が強いというか、世間体なんて気にしない、「人は人、自分は自分」というポジティブな考え方というか、トラヴィスのように「畜生!畜生!」と泣き喚くのではなく、感情を表に出さない、飄々としたところに、アラバマは多分惚れてしまったのだろう。

アラバマは泣き叫びながら、愛の告白をする。
「アタシはコールガール…。
 でも腐りきっちゃいない。
 アタシは好きな男のためなら100%尽くすオンナなのよ!」

かつて、フランスの哲学者ヴォルテールは、こう述べている。
「男がどんな理屈を並べても、女の涙一滴にはかなわない」
だから、クラレンスはドレクセルのアジトへ向かったのだろう…。

まぁ、アラバマの涙を見て、その思いに「答えなきゃ!」と決意するちょっと前のクラレンスは、実のところ、フワフワしていた。
モテるという言葉とは縁のない男だと思っていた自分が、普通の女の子だったら「絶対観たくない!」と言うような空手映画を一緒に観てくれて、話せば趣味もドンピシャ(好きなアーティストがプレスリーとジャニス・ジョプリン)。
だから「オレは、この一瞬のために生きてたんだ!!」と有頂天になるわけだが、その後、冷静さを取り戻したかのような、あるいは本当の自分をアラバマに知ってもらいたいと、思わせるようなシーンが訪れる。

デート後、自分の働くコミックショップに、アラバマを連れていくクラレンス。
アラバマに渡した漫画は、1965年に発売された「Sgt. Fury and His Howling Commandos(フューリー軍曹とハウリング・コマンドーズ)」の第18号。
[注:マーベル映画でお馴染み、サミュエル・L・ジャクソン演じるS.H.I.E.L.D.総司令、ニック・フューリーを主人公にしたコミックスで、原作では、第二次大戦から活躍している、ものスゴ〜く、長生きの白人スパイという設定]

クラレンスは得意げに解説するのだが…
「ニックを見てよ!恋人のパメラから貰った指輪をネックレスにつけているんだ。でも敵のナチの将校と格闘中、指輪が海に落ちてしまう。ニックは海へ飛び込み、指輪を拾おうとするんだけど…」
クラレンスは、その続きを話そうとしない。
なぜならパメラは既に死んでいて、パメラの遺言が「私がどれだけ貴方のことを愛しているか知ってる?」だからだ。

ここからは勝手な深読みだが、
渡して見せた漫画は、クラレンスからアラバマへの“ラブレター”のようなもので、ギーク特有の妄想にも思える。
クラレンスは自分に自信がないから、漫画の結末を言えないでいる。
もしかしたら、亡くなったパメラのように、アラバマは今夜限りで消えていなくなる幻なのかもしれない…。
自分の恋心など一方通行に決まっているから、言葉で気持ちを伝えるなんて出来るわけがない…と。

タランティーノは公開直後のインタビューでこう答えている。
「これは、25歳当時のまるで芽が出なかったオレ自身を描いた作品なんだ。実際にはクールな娼婦に会ったことなんてないけどね(笑)。その頃は全く女っ気がなかったんだ。だから、自分を理解してくれる彼女がいるっていうのは、当時のオレにとっては一番の夢だったんだよ」

当然の如く、劇中で作家タランティーノの夢は叶うことになる(笑)。
カビ臭いコミック雑誌を片手に、得意になってオタク知識をひけらかすクラレンスの口が、アラバマのキッスで塞がれる…。
そんな童貞喪失シーンのバックに流れるのが、ソウル・ボーカル・デュオのチャールズ&エディのメロウなナンバー、
「Wounded Bird(93年)」 

「オレたちは傷ついた2羽の鳥/でも高く飛べる/生きてることが実感できる場所を、君が与えてくれるから/そう、高く舞い上がれる/孤独な夜をしのげる場所を、君がオレにくれるから」

さらにもう一つ、タランティーノの気持ちがわかる、共感できるシーンがある。

互いの想いが通じ合った二人は、ジョン・ウーの「男たちの挽歌Ⅱ(87年)」を仲良くTVで見ているのだが、アラバマは昨晩「実は空手映画なんか興味がない」と言っていたにも拘らず、画面に映るチョン・ユンファのアクション、その一挙手一投足に合わせて、「アチョー!イェ〜イ!」とノリノリで歓声をあげている(!!)。

これはもしかしたら、タランティーノと自分だけの甘い考えなのかもしれないが(汗)、オトコにとって自分の趣味・嗜好に付き合ってくれる女性こそ、自分にとっての「女神」なのだ…。
(まぁ、こんな考えも、随分昔に悪友の奥さまから「夫婦円満の秘訣って知ってる?それはどんだけ、ダンナの趣味に妻が付き合えるかどうかなのよ!」と言われ、悔い改めることになるのだが…笑)

閑話休題…

観ている誰もが、アラバマの強さ、クラレンスへの強い愛情を感じ取れる場面が終盤に訪れる。
言い過ぎかもしれんが、まさにこのシーンのために本作は存在しているようにも思えてしまうのだ。

それは、クラレンス不在のホテルの一室で、アラバマがマフィアの殺し屋(ジェームズ・ガンドルフィーニ)にボコボコにされ、血塗れになりながらも戦い抜くシーン。
これこそ、彼女がクラレンスに叫んだ契りの言葉、「私は好きな男のためなら100%尽くすオンナよ!」を最も顕しているシーンだと思う。

盗まれたコーク(=コカイン)の在り処をネチネチ痛ぶりながら尋ねる殺し屋に対して、アラバマは、「コークならこの部屋に無いわ。ペプシの自販機ならあっち(=ホテルの廊下)にあるけどね」と中指を立てて、うっすら笑みを浮かべ、健気にも、夫クラレンスとの約束を守ろうとする。
顔を腫らし、血みどろになりながらも、夫への100%の愛を誓う妻アラバマ。
そのシーンに非情にも、ハンバーガー屋でプレスリー愛を語るのに夢中で呑気なクラレンスの姿がカットバックする。

バックに流れるのは、シュレルズの「Will You Love Me Tomorrow(60年)」
「今感じる幸せはずっと続く宝物なの?/それともひと時の慰み?/あなたの魔法のような吐息を信じていいの?/明日もまだ私を愛してくれるのだろうか…」

繰り返しになるが、20代の時、書いた本作のヒロイン、アラバマは、タランティーノ自身の理想の女性像だ。
そして、そのモデルが、タランティーノの母親コニーであることはほぼ間違いない。

タランティーノはコニーが16歳の頃に生まれるも、父トニー・タランティーノは妊娠させてしまったと知るや、出産前に姿を消した。以来、幼い頃からB級のバイオレンス映画を一緒に楽しんでくれる女性など、母コニーしかいなかった。
タランティーノは、この頃のことを「友達のいなかったオレは、若く美しい母親と、いつも恋人同士のようにTVと映画を観ていた」と述懐している。

当初の「トゥルー・ロマンス」のシナリオでは、クラレンスは殺され、残されたアラバマは、まるで母コニーのように、彼の赤ん坊を一人で産んで育てる決心をする。

また、劇中、長く顔を合わせていない父親(デニス・ホッパー)に、クラレンスが会いに行く場面がある。

「母さんと離婚してから、オレに何をしてくれた? オレのことなんか忘れて、酒浴びてたくせに…。一度でも父さんを頼ったことがあるかい!?」と責められた父は、息子を守るためにマフィアに殺される。
これは、自分を抱いてくれたことなど一度もない、顔も知らぬ父親の姓を名乗り続けるタランティーノの、叶わぬ夢なのではと、思えてならないのだ…。

(蛇足ながら…
この時のデニス・ホッパーの、死に際の言葉が最高だ。
シチリア人の血を引くマフィアの番頭クリストファー・ウォーケンに向かって、「昔々、シシリー島はムーア人に支配されたよな? お前の何代も前の婆さまはNixxerに抱かれたんだよ!シチリア人には黒い血が流れてるんだ!」という、最悪最凶のアジテーションをするのだ!!)


最後に…

男女が強盗・殺人をきっかけに逃避行を始める映画はいくつもある。

実在のギャング、ボニー&クライドの伝説を神話化した「俺たちに明日はない(67年)」、スコセッシの処女作「明日に処刑を…(72年)」、ペキンパーの「ゲッタウェイ(72年)」、そして58年に起きた連続殺人「スタークウェザー=ヒューゲート事件」をベースにした犯罪ロードムービー「地獄の逃避行(73年)」…etc。

その原典となるのは、エドワード・アンダーソンの小説「Thieves Like Us(37年)」を映画化した、ニコラス・レイのデビュー作「夜の人々(48年)」だろう。
(注:ロバート・アルトマン監督作「ボウイ&キーチ(73年)」は、「夜の人々」のリメイクである)

特に「夜の人々」と「地獄の逃避行」は、タランティーノがお気に入りに挙げている作品であり、多くの点が本作「トゥルー・ロマンス」と共通している。

先述した当初のアイデア、その結末のように、「夜の人々」の主人公の男は仲間に裏切られ射殺され、男の子供を宿した女だけが生き残る。また「地獄の逃避行」も男は死刑に処され、女は終身刑を受けるも後に釈放され生き永らえる。

では、なぜ、当初のバッドエンディングを、メガホンをとった監督トニー・スコットは変更したのか。

これは勝手な推論になるが、トニー・スコットには「時代が求める“商品”としての映画はそうでなくてはならない」というルール、あるいは自分に課した制約みたいなものがあったのではと思えるのだ。

上記した「逃避行映画」の殆どは、アメリカン・ニュー・シネマ時代に作られた作品で、つまり「反逆者の敗北=負け犬」で終わる。しかし本作が世に放たれた90年代は、家族揃って楽しむハリウッド・エンタメ・アクション全盛期の時代である。

また、トニー・スコットがイギリス出身であるにも拘らず、「トップガン(86年)」や「ビバリーヒルズ・コップ2(87年)」といったハリウッドスタイルど真ん中のような映画を作ったことからも、敢えて、自らの作品の中からイギリス的なもの(=アイロニカルなユーモアやシニカルな結末)を一切消していたように感じてしまう。

彼が次々とヒット作を生み出した80年代から90年代、その作風は「MTV的」と揶揄され、軽薄に思われたこともあったが、実のところ、それは観客が望むもの、受け入れるものを供出していたに過ぎないのではないだろうか。

ただし、それはトニー・スコットが作家性を捨てたことではない。
彼のスタイル、その代名詞と云われる目まぐるしいカット割、大げさなスローモーション、色鮮やかなフィルターなどを使った映像は、あくまでも個人的にだが、デジタル撮り映画が幅を効かす今日に於いても、決して「古臭いフィルム」を観ている感覚に陥らないのだ。

兄リドリー・スコットは、亡き弟トニーのことを「オレはクラシックだが、弟はロックンロールだ」と形容した。
それはロカビリー、ハードロック、パンク、ヘビメタ、グランジ…と、いつの時代でも若者の嗜好に合わせ、彼らの内なる声も代弁し、受け入れられる「ロック」のような映像スタイルということだろう。

そして本作の生みの親であるタランティーノへの敬意も、トニー・スコットは怠ってはいない。

タランティーノがインスパイアされたであろう「夜の人々」劇中内、女性に対して奥手な主人公が、恋人に「映画館で手を繋いで、映画を観たい」と語る細やかながらも叶わなかった願いを、ちゃんとクラレンスとアラバマが、隣同士仲良く空手映画三本立てを観るシーンで具現化している。

また、「地獄の逃避行」の主題曲、カール・オルフ作曲の「Gassenhauer」に似せた雰囲気のものを作って欲しいと、トニー・スコットはハンス・ジマーに依頼。マリンバによるメロディーや打楽器のアンサンブルなど、正直似ているどころか、ソックリだと過言したい程の仕上がりになっている。

劇中でも頻繁に流れ、特にアラバマの「100%尽くすオンナよ!」の名台詞や、デニス・ホッパー演じる父親がクラレンスへ別れ際に「これからは女房のことを一番に考えろ!バカをするんじゃないぞ…愛してるよ」とハグする印象深いシーンに使用されている。

曲のタイトルは「You're So Cool」。
そう、終盤、血の惨劇の直前、クラレンスのハンカチにアラバマが書いた文字。
エルビス・プレスリー風の男が、鏡越しにクラレンスへ囁いた言葉である。


但し、トニー・スコットに渡した台本には、劇中内の使用を望むタランティーノがチョイスした既成曲のリストが、ビッシリ書き込まれていたそうだが、トニー・スコットがそれに従ったのは唯一、ホッパー演じるクラレンスの父さんが夜勤明けで自宅に帰るシーンに流れた、往年のカントリーシンガー、バール・アイヴスが歌う「A Little Bitty Tears(61年)」だけだった…(笑)