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バーニング 劇場版のレクのネタバレレビュー・内容・結末

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

目に見えるものが全て真実ではない。
沈みゆく夕日は美しく、時間経過と共に色を変えながら終焉を迎える。

そこに"ある"と思い込むのではなく、"ない"ことを忘れる。
生きる意味を渇望する飢え、特別ではない物事にそれぞれが特別な想いを抱かせる。


ヘミが見せたパントマイムの蜜柑のように、ヘミの飼っていた猫の存在は目にしていない事実としてジョンスに刷り込まれ、事件の布石とされる。
あの猫もたまたま「ボイル」という名前に反応してたまたま寄ってきただけかもしれない。
プレゼントした腕時計にしてもそうだ。
可能性としてはヘミの物かもしれないが、コンパニオンの誰もが手にできる景品でもある。
これらは全てジョンスがヘミの物で"ある"と思い込んでしまっていることがポイントだろう。

ヘミの失踪後、ジョンスは"ない"ことを忘れられずヘミの行方を探し求める。
一方で、ベンは"ない"ことを忘れたようにいつもの日常生活を送る。

悲しみを感じても涙を流さないので証拠がない。
ビニールハウスの件に関してもそう。
燃えたビニールハウスをジョンスは直接目にしてはいないが、ベンは燃やしたと公言している。
ベンは実際にビニールハウスを燃やしていないのかもしれないし、想像内の虚構である可能性も考えられる。
井戸の話に関してもそう。
本当にあった出来事かも分からないし、ヘミが落ちたという過去の事実すらも真相は分からない。
ジョンスの記憶違いかもしれない。
これら証拠がない事象は失踪したヘミの存在の有無、そしてラストシークエンスにも繋がるわけだが。

物語の核は"人の想像力が生み出す願望"であり、その比較対象が貧富の差を描いた対照的な二人の男ジョンスとベンなのだろう。
"想像力が生み出すもの=創作物"。
グレートハンガーが人生を渇望する者とするなら、ジョンスにとっての人生とは小説とヘミの存在であることは間違いなく、ラストシーンはジョンスの小説の結末(=願望)という個人的結論に至る。


このラストを単なる小説の結末(=願望)として書き上げたことでジョンスの願望は満たされるのか?
そう、仮にこの結末を小説として書き上げていたとしても、あのラストに関しては現実である可能性も創作物である可能性もあり得る。

ヘミの部屋で自慰行為をするジョンスの姿。
ヘミを探し求め、ベンの後を追う執着心。
これらのシーンが幾度となく映されることから、想像や願望に対するジョンスの歯止めの効かなささを表現しているのではないだろうか。
ヘミの存在が"ない"ことを忘れることが出来なかったジョンスにとって、グレートハンガーの打開策、解決策は"ある"と思い込むこと。

想像力が願望を生み出し、それが現実となる。
そんな抗えぬ人の欲、熱く燃え盛るような想いの強さを物語っているのではないだろうか。


解釈の余地は多く、"想像力"自体が知識として自分の中にあるものの中でしかイメージ出来ないように、劇中の散りばめられたメタファー同様、作品自体もそのラストも人が想像し得る範囲内での解釈の多様性を狙ってるように思う。
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