mai

バーニング 劇場版のmaiのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
4.0
なんともスコアのつけにくい作品でした。

誰かと語り合うことで完結する作品というか…自分の中で「こういう解釈・こういう結末」という映画への考察を作って、それを他人と提示し合いたい。そうすれば、なるほどそうも捉えられるのかと楽しめそうだけど、一人で観て一人で消化するには謎やメタファーが多くて厄介です。
「そこにあると思うのではなく、ないということを忘れたら良い」
という意味のセリフに象徴されるように、この映画には存在の有無を投げかけるシーンが多く存在します。
姿を見せない猫に餌をやり、その飼い主はパントマイムにハマっていて、昔落ちたという井戸は見つからず、燃やしたというビニールハウスはどこにあるかも分からない、おまけに好きになった女の子は失踪してしまう。
猫・井戸・ビニールハウスに関する存在の有無は、言葉の呪縛のようなものに感じました。猫の話、井戸の話をする時、ヘミにとってそれが本当に存在してるかどうかなんて正直大したことではなかったのかもしれません。実は、その裏に隠してる自分の本音に気付いて欲しい嘘だったのかもしれないし、姿の見えない猫・誰もが知らないという井戸(母はあったと言いますが)は存在が確認できないだけで本当はあったのかもしれない。本当はどっちなのか分からないけど、猫に餌をあげて欲しいという口実でジョンスと関わりを持ちたかっただけかもしれないし、井戸の話をすることで自分の抱える孤独に気付いて欲しかっただけかもしれない。存在がどうこうで話をしたわけではないはずなんです。でも、その妄想・空想に身を委ねるべき職業の作家であるジョンスはこれでもかというくらいに言葉にこだわります。猫といえば猫がちゃんといるものとして捉えようとするし、井戸の話が出たならばそれが本当かどうかを確認したがる。向くべき方向が違うんですよね。
そして極め付けはビニールハウス。
わたしは本当にビニールハウスを燃やしてるわけではなくて、これは察しろよの話だと思ってます。
ベンが「彼女は煙のように消えた」とさらっと言ったり、彼がビニールハウスを燃やすことに関して語る時の妙な抽象的・曖昧な表現だったり。かなり意味深な言葉を使ってました。
ここでもジョンスは言葉にこだわるんです。彼が燃やしたビニールハウスを探そうとします。
途中で本当はビニールハウスって何かの隠語なのでは?と気づき方向転換するわけですが、それでも彼が「存在がある」ことに重きを置いていることが強調されています。ベンの家の近くで尾行したり、彼の家でヘミのものを探したり、猫が彼女の飼っていた猫と同一か確認したり。
そしてベンがヘミを殺したのだと結論づけるわけです。

きっとベンにとって「ビニールハウスは役立たずで目障り」と同じように、自分が退屈したものや役立たずだと感じたものを消し去る意味で女の子を見繕っていたのでしょう…ヘミの後釜的な立ち位置で、快活な女の子がそばにいたのも意味深です。
そして、ヘミの語ったリトルハンガーとグレートハンガー。このグレートハンガーってまさにベン・ヘミ・ジョンスのことじゃないかな…と思いました。物質的に「ハンガー」な状態まではいかない(もちろん貧しさ豊かさの違いはありますけど、食べ物に困るほどの貧しさではなく、生活は送れてる)けれど、精神的に「ハンガー」な状態なんだろうと。
ベンはお金持ちだけれど、その中にある満たされなさ?みたいなものを「燃やす」ことで得ようとしていて。ヘミは、抱えきれないような借金を抱えてまで整形を実行して。ジョンスは、怒りを堪えきれない父親の反動なのか感情が常に表に出ないようにしていて、抑圧を感じさせる。
その中で起きたのが、この映画の出来事のように思うのです。

ここからは完全にわたしの解釈ですけど、存在の有無というのを、リトルハンガー・グレートハンガーに掛けてるのかなぁと思いました。
パントマイムの時にヘミが語ったように、存在があるのかに焦点を当てず、そこにないんだということを忘れてしまえば良い…そうすれば、物質的な存在を持たずともやっていけるはず。でも、わたしたちは「ハンガー」な状態で、存在があるかなしかの単純な判断で物事を決めてしまう。
存在がないから白であり、存在があるから黒である…といったように。
そこへの投げかけでもあったりして…と考察しました。

この映画の深いところは、物語のどこかを妄想として捉えるか否かだと思います。
ジョンスは物語ラストでパソコンを打ち始めます。これはきっと小説だろうと容易に想像がつくわけですが、どこからかは彼の妄想なのか?という疑問を語れるシーンでもあります。
殺害までを全て現実に起こったものだとするのもありだし、殺害は小説の中・もしくは妄想だとするのもあり。突飛ですけど、この映画のほとんど(例えばヘミの失踪)を妄想としてしまうのも、それはそれでありかなと。
どう捉えるかによって、ジョンスへの解釈が少しずつ変わってくるので…だからこそ誰かと語りたい。笑
彼が小説家として、存在の有無ではなく、意識の有無・メタファーとしての役割を認識できるようになったのか?もしくは、最後の最後まで存在の有無に囚われたままなのか?でも、ここに対する答えは映画の中には描かれていないんですよね。とにもかくにも、謎に対する答えとなる部分が凄く曖昧。だからこそ、こんな長文レビューを書きたくなるんですけど。笑

三者三様の状況があって、そのどれにも深く感情移入はしないというのが良かったです。誰かに感情移入しちゃうと、考察しにくいですし。

映画全体としては、田舎の風景だったり夕焼け、燃える炎などなど奇麗な映像も多い一方で、若干長いかな〜というのが本音でした。映画のあらすじを終える頃には、映画2時間分が終わってます。あらすじだけだとミステリーなのかな?という印象なのに、観てみると、これは原作を愛している監督による投げかけなのだと気づきます。ミステリーの謎解きに重きを置いた作品ではないんです。
さらに言えば、やっぱり村上春樹なんだな〜と感じさせる、ヘミの役どころ。メンヘラっぽくて、その肝心の心の奥底みたいなところは読み解けない。キーパーソンだけど、物語をかき乱す役割ってだけで、彼女の存在自体が映画の主題になるわけではない。その設定が村上春樹っぽいなぁと。

1回目観て、その後ところどころ飛ばしながら2回目も観て…2回目でやっと「おぉ」となれる映画だと思いました。
言葉に囚われずに、メタファーとして発せられたのではないか?と念頭においてセリフを辿ると物語の趣が変わってきました。

考察したい人にとっては最高の映画ですけど、やっぱり地味に長いし結末は曖昧なので、さらっと映画見て、映画見終わったら満足感を得たいって人には向かない映画だと思います。
mai

mai