カラン

幸福なラザロのカランのレビュー・感想・評価

幸福なラザロ(2018年製作の映画)
4.0
イタリア中部の山間部。橋が壊れており、世間から隔絶されたタバコ農園の集落に小作農たちがいた。電球等は配給の男が持ってくる。村から出ていくには侯爵夫人の許可がいると、山の中に幽閉されて、前時代的な搾取を受けている。。。



☆脚本

トリアーの「黄金の心三部作」や、ハル・アシュビーの『ハロルドとモード』や『チャンス』の主人公たちのような、ナイーブでマイナーなラザロの物語。ラストシーンの1つ前が銀行でのシーンなのだけれど、お尻のポケットのモノが銃と間違えられて、暴力に発展する。金属探知機から、銃であると取り違えられるのは、ローワン・ワトキンソンならばもっとずっと上手くやっていたな〜と。乞食の皆で高級ペイストリーをあれもこれもと買って80ユーロって言われたり、ボロの3輪トラックを皆で押しているところとか、生き方を描いているのがとてもいい。

しかし、劇中スクリーンに映る奇跡がそのトラックを押しながらとぼとぼしていると、教会のオルガンの音がついて来て、教会から音がなくなるっていうのだけなのは、いまいちな脚本ではないだろうか。えっ、他にもある?線路脇の雑草をご馳走に変えるとかね。しかし、これも抜いてきた草を籠に集めるとか、スナックがご飯だった人たちが残飯のようなほうれん草のソテーみたいのにして「うまい」って言っただけで、画面上ではうまそうじゃない。つまり奇跡が起こったってことにしているだけ。

いやいや。ラザロが復活したことこそが最大の奇跡だって?しかし、それは聖書の考案したエピソードであって、本作がカンヌの脚本賞として受賞するべき手柄ではないような。青年を素朴ないでたちの装いにすることでビジュアル的に市井の聖人に同一化させようとしたのは分かるが、寓意の作為ばかりが目立つのは、まったく脚本の問題であろう。この種の奇跡の描き方で脚本というのであればジム・シェリダンの『イン・アメリカ』(2002)であろう。

以下に書くように本作の映像はけっこう立派である。問題は「ラザロの復活」と「浦島太郎」をかけ合わせるというアイディアだけでできている脚本が足を引っ張っているのである。


☆額縁

ビスタサイズの内側に額縁をつけた感じで、四隅は丸くくり取られた画面サイズになっている。良いと思う。ナチュラル系POVって感じだったけど、思い込みの激しい鑑賞者は、あざとさだけを感じるのかもね。スタンダードサイズに近づけた方がもっと良かったかもね。ただ、古いアルバムをめくっていく感じは出てた。


☆16mm

それで16mm。ソクーロフの『マリア』(1975)のような金色の藁を入れると、大ぶりの脱穀機が次々と籾を舞い上げる。ジャン・ヴィゴの『操行ゼロ』(1933)の羽毛よりも、視欲動のおとりが画面を覆い、煌めく金色の筋で溢れる。ちゃんとスローモーション。たしか。感無量。


☆空撮

ドローンで山肌を舐めまくる。何もないのだが、複雑な隆起を映しながら、山間の孤独を空からも捉える。本作の前半は、世間から隔絶した山間の農村の生活を描くのだが、カメラを回す悦びが伝わってくるほど。このロケは楽しかったはずだ、撮影班も、編集も。



レンタルDVD。55円宅配GEO、20分の18。


17/20の『ナンニ・モレッティのエイプリル』はパス。
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