ほのか

幸福なラザロのほのかのレビュー・感想・評価

幸福なラザロ(2018年製作の映画)
3.9
タイトルをすごく考える。
観ながらも観てからも、このタイトルをそのままの言葉の意味でこの映画を捉えていいのかな…なにかが違う気がするな…って思いが巡る巡る。
でももしこのタイトルじゃなかったら不憫だ可哀想だって思いが先行してしまってそれだとまた違う映画になってしまってたんじゃないかな。きっと「幸福なラザロ」という言葉のフィルターを通してこの映画を観るように作られているんだ。タイトルが持つ力が凄い大きい、タイトルありきの映画。人が彼のことを不憫に思うことも幸せかどうかを疑うこともまるっと読んだ上で先回りして「それでも彼はこれ以上ないほどに幸福だったんだよ」って諭されてるんじゃないかって答えがいちばんしっくりくる気がする。このお話でラザロが幸せかどうかっていうのは会話上もそれを巡って何かが起こることもないので結論でしかないのではないかなと思う。唯一、彼がとても幸せそうな表情をするのが彼が誰かの「家族」として「仲間」として受け入れられた時。タンクレディが口からでまかせで兄弟だと言った時、都市の住処でかつてのように音楽を奏でた時。この映画でタンクレディのあの言葉はラザロにとってとんでもないほどの効力を持った魔法になったし、全てを忘れて再会を喜び合いラザロの瞳の中にかつての様子が浮かび上がるあのシーンでは涙が溢れてしょうがなかった。その反動もあって月明かりの下涙を流すラザロのシーンも美しいほどの悲しさが溢れ出てて、たまらなかった…。本当にタンクレディだけを追いかけて僕を兄弟だと言ってくれた彼のために彼のためにここまで来たのにな…。
とやかく言いましたが、結局人が感じる幸福をわたしが勝手に決め付けられるわけがないんですよね。あの環境であの扱われ方は幸福じゃない!は傲慢だ。

違法となった小作人の所有。所有されてる小作人に搾取されているラザロ。この環境、状況、生活、この先も続くとされていた未来。それらを通してラザロのことを見つめる。明らかに不当なそれらに不当であると不満を持ちながらも行動には出なかった他の大人たちとは全く違う心の持ち主だった。受け入れて生活する。あの場所であの大人たちに囲まれて生まれ育って反発心が湧き上がってこず、彼らに従い続けていたのはとても不思議なんだけど、あの映画で彼を知るしかない身からするとそれがラザロだとしか言いようがない。ラザロのことをなんて言い表したらいいんだろう。誠実?謙虚?たしかにその言葉にも当てはまる人ではあったんだけど、根底にある彼自身はとてもふわふわしているように思う。彼自身が見えづらいから人は興味を持つし、付け入るし、一定の距離を保とうとするし、突然怖くなって拒絶する。


後半のファンタジーにはちょっとだけびっくりしてしまったけど、全く変わらない彼ら彼女らの姿のおかげで違和感なくスッと受け入られた。
新聞をピッポが大人たちに読み聞かせるシーン、至極心に響いた。世の中のことが何もわからない、文字も読めない、お金もない。本当に文字通り何も持っていなかった大人たちが、それでも何とかピッポには学をと汗水垂らして工面したお金と気持ちの果ての成果なんだろうな…。空で口ずさめるほど、次の言葉がわかるほど何度も何度も1つの記事を読み聞かせてもらった。それが楽しいお話ではなく、自分たちを苦しめた出来事というのがまた彼ららしい。都市での生活を見ていたら未だにあのままの生活の方が幸せだったのかもと思う瞬間もしかしたらあるかもしれないと思う。それほどまでにかの人々にとってはあの生活が全てで人生で、それがたまたまであったとはいえ覆されて、新聞の記事になるほどの出来事で、全国の人々に自分たちの存在が知られた、たった数十人の世界の人たちが何千万人もの世界の中心になったあの時は苦しい思い出であると同時に目まぐるしく世界が広がった複雑な気持ちが折り重なっている瞬間だったんじゃないかと思いました。




なんかもうなにも考えずともここまで文字が出てきてしまった…。いつも以上にまったくもって誰かに読んでもらえるような代物にはならなかったけどちょっとスッキリした。書き出せば書き出すほど頭の中をぐるぐるまわる映画。ほんとうに不思議な世界だった…。