ニューランド

存在のない子供たちのニューランドのレビュー・感想・評価

存在のない子供たち(2018年製作の映画)
3.5
☑️『存在のない子供たち』及び『幸福なラザロ』▶️▶️
後進地域の搾取・疲弊と、無垢なる魂の存在と力を描いた二本立て。
表題作は、労作であり、力作であり、快作である、見事に誰にも有無を言わせない。朝・昼・夕・夜・オレンジや緑めやグレーめ入る人工照明の色合い・粒子埃具合・光の入り方が同じような動きを人が(延々)してても着実に推移し巡ってゆき、手持ち揺れ・フォロー・ドローン空撮もスマートに呼吸感あって、実に確度とフリーさを逐次示す多彩な仰俯瞰含むアングル押えを保ちつつ、ショット内・シーン間を詰めて、時制入り繰りの頷きやスローや音楽載った味わいで、ぐんぐん進み惹き付けてく。レバノン・ベイルートの貧民・移民街の相互搾取・飢餓・貧困・騙し・人身売買・荒廃・無計画出産・正業不能・ライフラインも欠けてく不衛生、を舞台・対象とした映画は稀にみるリアル・フィット・アクチュアリティ度。身分証明、出生証明、旅券、滞在許可証、身元保証人、生来持たないか、不本意に失ったかの、この地のレバノン人一家、エチオピア人就労者、シリア難民ら、自分を世界に証明できず、卑屈に心も生活も貧しく表から隠れ逃げるかたちでしか生きて行けない人たちの群像をそれでもナチュラルに、共感部と無知閉塞部を描いてゆく。それに対する、収奪支配機構、人身売買組織、差別・逃避意識、離反した行政・司法も。
デ・シーカ作品を上回るような特に子供たち同志の、聡明で大人のように因習に引き摺られず、互いの血縁を超えた近しさ・関係を覚え合う、周囲の対応・傍観もドキュメンタルで、執拗な際限を感じさせぬ彼らの本質の行動反復描写が圧巻で心も癒す(11歳で嫁がされる妹と1つ上の兄、家出12歳レバノン少年と不法就労エチオピア人母を持つ一歳赤ん坊)。
「世話できないなら、子を産むな。人の心があるのか。僕は地獄の中で生きてきた。」と、実母を罵り法廷へ訴える主人公は、爽快・毅然でもある地点にも到達してる(同時にやや全体に独自のやみくもな力も欲しい気も)。反対に隔絶した村の小作搾取残存と解放後を繋ぎ問う存在を描いた『~ラザロ』は、作者の前作『夏をゆく人々』もそうだったが、通常の映画作法を結果として逸脱してる、素朴なのかズレてるのか、はっきりしないあまり観た事もない不可思議な作である。しかし、同じように、清清しい感動へ届いてく。
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新約を思い浮かべるタイトル『幸福なラザロ』。どこかモヤってくすんだトーンも多く、望遠や大Lも多め、また前景というより中景を横切る人がいたりして、も影響あるのか、ショット間の位置・角度・関係がスタイルとしてスッキリ入って来ない事が多い。空に向かい仰ぎ立つカッティングも心理より、尺の切れと繋ぎの切迫にしか見えないし、空撮も何となく流れの中でとしか見えない。おまけに、視覚ではなく風の音というものが人の意識に呼応し音楽を運ぶ、生き物的に絡んでくる。しかし、限りない至福・貴重を感じてる自分に気づきもする。
だいたいこのストーリーは、その進め方は、何なのか? 要領を得ないのか、思いもしないものに向いているのか。宗教的寓話? 後進地域への社会の搾取の告発? 無垢なるものへの人々の目覚めとその現実的限界? SFというより超越的神秘の存在の社会への逆照射? 誤っていたとされた世界への概念ごと回帰願望? 決めつける事こそが拒否されてる世界。我々は、「ラザロッ」と呼ばれる侭素朴に従い動き続けるに疑問を持たない青年、昔話に登場の狼が現実に現れ彼を伸ばし伝える姿を、只無心に見つめ・内の行動を共有できる瞬間を悦びと共に持てればそれでいいのだ、という心境が持続する。
アピールとかたち・ちからを評価するなら『存在~』だが、映画と唯一無二を重んずるなら『~ラザロ』か。
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