マツタヤ

オペレーション・フィナーレのマツタヤのレビュー・感想・評価

3.0
アイヒマンはドイツの親衛隊中佐でユダヤ人移送局長官、アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わり、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担った。

そのアイヒマンのブエノスアイレスでの逮捕劇を、その捕まえるまでに至る舞台裏を交えて見せる映画。

映画なので逮捕までを色々スリリングに描くところは良かったけれど、この映画とは別にはなるが、かのハンナアーレントが書いた「エルサレムのアイヒマン」という本でも語られたこのユダヤ人大量輸送という人類史上最大の犯罪行為に対する事実があまりにも考えさせる事柄なのでどうしても見終わった後はそっちに気持ちが傾いてしまう。

アーレントによると(以下は「エルサレムのアイヒマン」の中で印象に残った所のメモ書きです)アイヒマンは学業はぱっとせず出世欲は強いがナチの中佐であり高級幹部ではない。精神病理学的には正常ではあるが自分のしている事に思考していない。反ユダヤ主義でもなく、犯罪歴もない、法を遵守する市民を自認し、極悪非道の怪物という風評はあたってはいない。アイヒマン自身はたしかに大量殺戮に直接的に関わってはおらず多くのひとを殺そうという意図もなかった。しかし殺すべしという総統の意志こそが法であり、法を遵守する市民であればそれに従うのが義務であり、殺すべからずから殺すべしに逆転したこの道徳的に転倒された世界のなかで「普通」に行為したアイヒマンははたして罪に問うことができるのか。

アイヒマンは悪人になってみせようという決心とは無縁で自分の昇進に熱心であった以外に動機はなかった。単に彼は自分のしている事がどういう事か全然わかっていなかった。

ニュルンベルク裁判でも繰り返し言われたような事実上人類の敵であるこの新しい型の犯罪者は自分が悪い事をしていると知る、もしくは感じる事をほとんど不可能にするような状況でその罪を犯していることを意味している。

少なくとも戦争期間中は、犯罪的な活動や業務に関係しなかった組織もしくは公的な団体はただのひとつもなかったという真相もある。

とあるドイツ軍医曰く「SSの行動部隊に抗議したか何らかの本格的な妨害をした者は誰でも24時間以内に逮捕され、姿を消してしまったろう」

かたやカティンの森の殺害や非武装地帯の絨毯爆撃、そして広島、長崎の原爆投下はハーグ条約で言っている戦争犯罪を構成した。このような連合軍による行為が法律的に論じられなかったのは国際軍事法廷が名ばかりの国際であるにすぎず、事実は勝利者の法廷だったということである。

以上がアーレントの本の抜粋ですが、とはいえアイヒマンに罪は無いのかというと当然そうではなくて、それに対する答えはアーレントがアイヒマンに対して本の最後において述べている次の言葉がまさしく、で読んだ後とてもはっとさせられる。「君は自分の身の上を逆境の物語として語ったが、事情を知った我々としては、もっと順境にあったならば君も我々の前に、もしくは他の刑事法廷に引き出されるような事はまずなかったろうと、ある点まで認めるにやぶさかではない。議論を進めるために、君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故積極的に支持したという事実は変わらない。というのは政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きる事を望まない政策を君が支持し実行したからこそ、何びとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願う事は期待し得ないと我々は思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかも、その唯一の理由である」

これが理由。話は全然変わるというか飛躍するけれどこの部分の政治という所を仕事と読み換えても近しい事が言えると思う。お金のため、昇進のためだけに働く事で組織の道具になるのは不運だ、と単純には言えない。子供の遊び場ではないのだから自分が考える思想をもとに仕事をすることがこれすなわち生きていく事にもつながると思った。かのアルカポネだって捕まった後に「自分はとても一生懸命働いてきたんだ」と平然と言っていたとも聞いたことがあり、アイヒマンもそれはさぞかし日々の困難にも立ち向かう仕事ぶりだったろうとも思う、だけど結果として何百万人の命が失われた事実は変えようも無いもので、やはり本質は一生懸命やりましたではないのであってアーレントのいうように、ともに地球上に生きたいと願うことは決して無いのである。
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