YasujiOshiba

赤いイスタンブールのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

赤いイスタンブール(2017年製作の映画)
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ネトフリ。オズペテクが故郷トルコを舞台に撮った作品。1996年の『ハマム』から20年ぶり。撮影は2016年4月12日から七週間にわたって続けられたという。同じ年の7月にはクーデター未遂が起こっている。実際に自爆テロが起こるなど、政治的な緊張状態のなかでの撮影に、イタリア人スタッフは、カメラマン以外、帰国したという。

映画なかにも政治的な緊張を伝えるシーンがある。行方不明の息子の写真を持って訴える「土曜日の母たち」の姿、あるいは主人公デニスの家のクルド人家政婦が、家を破壊されて逃げて来て家族を助ける逃亡劇などがそうだ。

とはいえ、この映画自体は決して政治的ではない。撮影後の7月にはクーデータ未遂事件が起こり、それ以降、エルドラン大統領がそれまでの世俗的な自由から大きく離れる方向へ舵を切った。トルコは大きく姿を変えてゆくわけだけど、この作品は、ある意味、姿を変える直前のトルコ/イスタンブールの姿を捉えたドキュメントになったという。

そもそもオズペテクのテーマは故郷への帰還と狂おしく蘇る記憶。2013年に自身が執筆した同名小説の映画化。小説のほうでは亡くなったばかりの母への想いが綴られていたという。映画はそこに故郷への想いの数々を加えたというわけだ。

だからだろうか。冒頭のボスフォラス海峡の映像がはっとさせる。ドローン撮影だろうか。不思議な浮遊間に鷲掴みにされると、物語にグッと引き込まれるのだが、引き込まれたイスタンブルはほとんど迷宮なのだ。

まずはトルコ語。その耳なれない響き。見知らぬトルコ人俳優たち。その魅は眼差しの深さ、力強さ、ほとんど魔術。演じられる謎めいた人物たちの、謎めいた微笑のすべてが、デニスという作家から広がってゆく。

ぼくらは、そのデニスを訪ねてきたオルハンとともに、その不思議な人脈と不思議な家族との出会い、そして翻弄されることになる。なにしろ当のデニスが、ある夜、ボスフォラスを臨むテラスから忽然と姿を消してしまうのだ。

そこから物語はオルハンとともに疾走する。失踪したデニスを探す物語の続きはやがて、オルハンそのものの物語と重なり、溶け合いながら、隠された過去の悲劇を暴き、激しい追想を浮上させ、抑えてきた情動を蘇らせてゆく。

気がつけばオルハンは、もはやデニスの分身だ。デニスの母親に認められ、デニスの部屋に座り、デニスのコンピューターで、デニスの物語の続きを書き始める。生き霊が取り憑いたのか、亡霊を呼び出したのか、あるいは単なる想像力なのか、それともただベールが取り去られ、剥き出しの現在が現れただけなのか。

やがてイスタンブールのデニスにまつわる人々が、オルハンから離れてゆく。デニスが忽然と消えたときのように、オルハンはまたしても、ひとり海峡をのぞむ場所にとり残される。まるで運命を見つめるように、ボスフォラスの海に向きあえば、過去が現在を揺さぶりながら、未来への道筋を開く。そんな海。海はデニスのこと。

じつのところ「デニス」とは、トルコ語で男性の名前でも女性の名前でもあり、「海」を意味すると言う。ひとり残されたオルハンが飛び込んだのは、その「海」だったということなのだろうか。海峡を泳ぎ切る者と引き返す者。それはオズペテク自身の記憶から、登場人物たちの過去を反復する。デニスの恋人がそうしたように、そしてデニス自身もそうしたように、オルハンもまた生まれたままの姿になって、その母なる波に身を投じると、力強く、泳ぎ出す。イスタンブールが、夕日の赤に染まってゆく...

いや、それにしてもオズペテクらしいというか、あまりにもオズペテク。美しくも重く、抒情的で深く、五感ま
るごと迷宮に投げ込まれたような、そんな映像、そんな音、そんな物語。

映像と音がすばらしい。物語は異国の食べ物のように難物だった。目と耳に導かれながら、精神がもどそうとするものを、飲み込み直して咀嚼し反芻するうちに、そいつに段々と味が出てくるころには、滋養たっぷりに消化できるようになってきたような気がする。

大監督の失敗作という声も聞こえる。でもどうだろうか。オズペテクのフィルモグラフィーのなかでは、じつに貴重な作品ではないだろうか。少なくともぼくは、そう信じて少しばかりインタビューや映画評を読み、やがて、やっぱりそうだと納得できた。

作品に納得できると、トルコ語もおもしろそうだなとふと思う。でも次は、イタリアに戻って、アマプラにあるナポリの物語を見てみたいと思う。それにしてもだ。配信でオズペテクを堪能できる時がきたなんて、うれしい時代を生きているんだな、今。
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