mina10

愛がなんだのmina10のネタバレレビュー・内容・結末

愛がなんだ(2018年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます


原作小説が好きで鑑賞。
単純に邦画、という括りで見るのならば普通なのかもしれない。原作同様、大事件が起こる訳でもなく、人が死ぬわけでもない。映画として見れば多少冗長に感じる部分もあった。
しかし原作を知っている自分としては空気感、再現性という点ではそれも含め相当に忠実だったのではないかと思う。

『私はマモちゃんになりたい』
劇中に出てくるこの台詞についてテルコが作品中で詳しく説明する部分はない。なぜなのか本人も分からないからだ。
あくまでも想像だが、彼女の「好き」は「傍にいたい」とほぼ同義であり、突き詰めれば本人になるのが一番マモちゃんの傍にいられる。きっと彼女にとってその最善策以外はすべて妥協案なのだ。

人間模様も分かりやすく描かれており、映画を観ることで新しく発見できた事もあったように思う。
マモちゃんを散々批判する葉子はその実ナカハラ君に同じような事をしているし、そのナカハラ君とストーカー同盟を組んでいたテルコはナカハラ君が『やめる』と言った時にそれを止めるのではなくただ暴言を吐く。
どちらも、相手の中に自分を見出しているからこそではないだろうか。自覚の有無はともかく、人間は他人を通してしか自分を見られない。
テルコだってマモちゃんの中に自分を見ていたのではないだろうか。マモちゃんだってテルコと同じなのだ。ただ向かう方向がテルコでないだけで。マモちゃんだって、なりふり構わずすみれさんを好きなだけだ。そういうカッコ悪い部分も含めて愛することで、テルコは自分自身を認め、許すこともできていたのではないか。
映画を観て、改めてそう感じた。

余談だが、原作の中に『プラスの部分を好ましいと思い誰かを好きになったのならば、嫌いになるのなんかかんたんだ。プラスがひとつでもマイナスに転じればいいのだから。そうじゃなく、マイナスであることそのものを(中略)好きだと思ってしまったら、嫌いになるということなんて、たぶん永遠にない。』というくだりがある。
この作品の本質はここにあるのではないかと私は思っている。
マモちゃんはすみれさんを誘うためにテルコを利用している。テルコだってそんなことは百も承知だ。冷たくされようが都合よく使われようがそれでもマモちゃんに会えるならいい…ならば果たしてマモちゃんは本当に最低な奴なのか?
受け入れられているものを自ら否定できるほど、人間は強いのだろうか?会うのをやめる決断をしようとしたマモちゃんは、むしろ誠実と言える気がする。

テルコをメンヘラだ、気持ち悪いと思う人は必ずいる。
けれど、同じくらい共感できる人も多いと思う。
どちらも正しいし正しくない。正しい愛し方も間違った愛し方も存在しない。
自分が正しいと思った愛し方を疑わない以外に、幸せになれる道なんてないんじゃないのか。
劇中のテルコはそれを体現することで、『幸せになりたいっすね』というナカハラ君の言葉に対して自分なりの答えを出したのだと思う。

ナカハラ君だってそうだ。後半、葉子がナカハラ君の個展に来るシーン。
あれで二人が付き合う事になるわけでもないだろうし、今後葉子がすぐに劇的に変わるわけでもないだろう。けれど、あんなに幸せなシーンはない、と私は思って少し泣いた。そういう些細な事で、これまでのすべてが報われたような気持ちになってしまう。片想いなんてそんなもんだ。

愛なんて、恋なんて、『そんなもんだ』――諦めのようにも見える赦しが、この作品の随所から感じられた。
怖いけれど、とても優しい映画だった。
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