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赤いふうせん/女ゆうれい 美乳の怨みのニューランドのレビュー・感想・評価

3.6
☑️『女ゆうれい 美乳の怨み(再編版=赤いふうせん)』,及び『情炎の島 濡れた熱帯夜(再=よみがえりの島)』,『人妻漂流 静寂のあえぎ(再=静寂に抱かれる女)』▶️▶️
昨年の31回で、(年間のピンク映画を総括・励まし祝う、最後に残った大きな催し)ピンク大賞は終わったそうだが、ここ数年のピンクの業界の急激な縮小は、とりわけ熱心でもない私にも悲しく映った。国内に、映画学校や大学の映画学科は随分と増えてきたが、新人を商業作のスタッフとして採用し徒弟制度的修行踏める製作スタジオ?(に類するもの)の場は、この業界が最後の砦のようになってたのに。表彰式には数えるくらいしか行ってないが、そこでしか感じられない、よその大きな式では決して見られないのは、(若さが失われてない)純粋過ぎる映画愛・フィルム愛だ。AVとスタッフ・キャストともかなりカブっているのだが、誰もがAVは金稼ぎ・情熱はこちらに100%向いてるのだ。いつも、今どきとあっけにとられ、同時に心うたれる。舞台から来てる俳優さんですら、そうなのだ。
最後に式というより、それに係わる上映会に行ったのが2017年。ゴールデンウィーク中だった。スマートで一般非成人映画以上に洗練された城定作品が目当てだったが、驚かされたは山内のほうだった。こんな暗黙の規範を敢然と破り・降りて始原の力を持ち、かつ、これほど無心に震えるくらいの全身全霊を込め・きわめて高度に達し、しかし何かの映画的愉悦に達した映画、そうそうあるものでもない。(娘を不慮に亡くし・声を失い・離婚し、遺品の赤いランドセルを背負ってたどり着いた町の弁当屋で働き、主人と関係し、人のいい常連客と深まって、その売春業に加わる女に呼応し、他の人物~彼女と合流す家出娘とその係わる男らも~も)台詞は(途中でマジかと唖然とす)全編通じて僅かに一ヶ所だけ・純粋で重く理不尽な日常が流れ、繰り返される。虐げられ弾かれた者たちの泣き声の洩れ響きが代わりにSトラックを埋めてゆく。人工照明は極力押さえられ、色彩・陰影は底から強く、もったいぶったカメラ移動はなく、ローもLもフィクスのイメージ(手持すら)、カット割りも気取りなどないが、描写・被写体の在り方が、翔んでナチュラルに重く暗くおごそかだ。そう、神話的だ。そのうち事故、売春、暴力、殺人、血しぶき、異形物が前触れなく眼前に現れ、失った・喪いつつある家族を壊された者らが、組合せを(自ら)様々に求め変え・引込まれとその破綻、を経て新しい疑似家族を作り不可思議で始原の旅へ向かってゆく。パゾリーニを彷彿とさせ、よりプリミティブな密度・純度ある芯と全く思わぬ(シュールな)展開力がある。『人妻漂流 静寂のあえぎ』というタイトルの映画だった。
ピンク映画にはまるで詳しくないが、そんな人間でも惹き付ける、飾りないストレートでつましい好ましさ、そして畏れを知らぬ急先鋒の姿勢が、時代の片隅・時にそれを食い破って示されて来た(観賞映画本数を誇り競ってる人や、若い30代の男の人でも、端から軽蔑して観ない割合が多いが)。若松・渡辺護・梅沢薫から、幻児・伴明・滝田へ。そして、瀬々・寿保・トシキらの四天王、今岡・田尻・女池らの七福神を経て今は城定・義一・竹洞らか。それらの中で個人的にそのかなりの作を天才のものと思ったは、若松・寿保・今岡だったが、山内は何処までのものなのか、と云いつつ、怠け者でTVでも結構やってるのに、追いかけなかった。この機会に怠け癖を正す。
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『女ゆうれい~』(『赤いふうせん』)は、高いピアノ音が鳴り響き、風船やピエロ・くすみかすれた顔が現れて、S・キングなのか、Jホラーなのか、それにしても、人物たちは相手を警戒することなく、関係や愛欲にはまりこみ、思わぬ他人や霊の出現に一方的に驚き怯え、身勝手な奴らだなぁと思ってると、それを無化するように急激に、変化が訪れる。現実と想像(意識)、過去と現在と未来、(3人の女と2人の男)主要人物それぞれの関係・ポジションが、目まぐるしく往き来・入れ替り、ブニュエルの作風・その様相の驚くべき強度を呈してくる。モラル・感覚が、トゲを刺すように問われ来るような居心地の悪さ、反比例して不思議な高揚感を感じてくる。一気にジャンル映画から高度な作家映画に変容してゆく。
脚本・編集も監督自らが行い、W・アレン的完全作家に近い。撮影もとくにフィルムの特性への愛着が感じられ、Fuckシーンでも立体造型・動感に溢れてる。野外の力・鮮やかさ・伸びに対し、せまく薄暗い室内は場面によって幾種ものトーン・色合いに変え、それぞれの粒子感の違いが素晴らしく、明るめ・広めの屋内空間は立体造型力・動感を持つ。スローや特撮技術も今どきに遅れはとってなくてそれなりに使いこなしてる。抽象性も強い内容・美術で隙も感じられるが、精一杯のカドラージュ・カッティングは好感が持てる。
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中年の売れない駄文作家が、若い妻と巡りあって、経緯はくねるも、励まされ・成功と幸福を得かける『よみがえりの島』は、明らかに非フィルム作品で、厚みを欠き、端正・淡々と進んでくが、妻が何回か作劇を越えて示す柔和や亡くなった彼女を甦らすユタ(霊媒師)のベッドシーンの、CUの表情は素材を抜ける立体的な力がある。亡くな(りそうだ)ったのは、夫婦どちらだったのか、時折見られる作品の語りと主体の転換の手法がここでも見られるが、亡くなった愛する人を生かし続け、ずっと一緒に生きてくには、(小説の)創作活動を続けること(の中に)しかない、それをやり続ける決意と実践の自然で強靭な姿の半・異世界には、胸をうたれる。個人的・現実的には(にも?)、愛するひとを失ったら別の新たな関係性をそのひととの間に築いていく事だと思うが。そうでもしなければ(編中のユタによる甦りなど、特に)、耐え難い、或いは狂い・そのひととの本来のあり方が別の次元にヒートアップし変質してしまうと思う。
それにしても川瀬は、20代でたいしてうまくないのに大きめの役をもらってたデビューの頃から見てきたが、先輩の故・伊藤猛のハードな行き方とは違えて、ピンクを越えて日本映画界の名優、情けない役なら、という域に達してきてて、感慨深い。
個人的に総覧すれば、滝田・トシキ・田尻・城定らが、巧みでスマート・時にヒートもする名職人なら、(足立・大和の本と)若松・(振り幅大きい)瀬々・(夢野の本)寿保・(近年職人と見せてる)今岡らと並び、山内は、不恰好も厭わぬ真正の格闘する作家・体質だと思う。
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