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彼奴(きやつ)は顔役だ!のニューランドのレビュー・感想・評価

彼奴(きやつ)は顔役だ!(1939年製作の映画)
4.6
✔️🔸『彼奴は顔役だ!』(4.6)及び🔸『白.熱』(4.3)▶️▶️

 半数踏破目標のウォルシュ特集、質の良し悪しとは別になんでもいいから過半数クリアを達成したので(戦中戦後の作で初見のも幾つか)、調子に乗り、観る予定に入ってなかった彼の戦前、戦後の各々最高傑作をトリとして観ることにする。
『彼奴は~』は、初めて観たのはせいぜい30数年前で、ノースーパー版だったが、あまりの純度・確度に驚いた。今回、今世紀になっては初めて観たが、アマチュアリズムとプロフェッショナリズムの境目を、驚くべき、濁りない生真面目さで渡り続けてて、観る側も胸が引き裂かれ状態で緊張し、共感し、視座を正される。カッティングもカメラワークも、ルーチンの慣用的な舵取りや刻みがなく、切返し一つにしても限定し、リズムやカット数や視界移動は、商業映画としてこれでいいのかな、というくらいにカットが選定されてる。1918年の大戦休戦、復員しての禁酒法の拡がりによる不景気と、正業からその逆用社会への参入、顔役化も成り行き以外、故意の度を越した犯罪や、恋する女への強引な靡かせ、はないも、嵌まり具合も。そして大恐慌で一介のタクシー運転手に戻り、意中の人との再会を思い知る。しかし、復活の夢は捨てていない表向きとは別に、彼女の家庭への黒い闇の襲いには、昔の仲間と相討ち死してまで守る、話。
 初見の頃は、只ひたすらスタイリッシュ・禁欲的と、その限定されたカットらに唸ったが、寧ろ、初心者の様に、目に見えない大きな価値観に常に隣り合わせ、厳かで慎重、真っ直ぐで、真の内からの力と姿勢を感じぬいてる、スタイルを越えたスタイルなのだ。
 全図からMカット・その正統絡みへ、カメラ移動も前へや、多人数がいる室内では配置に影響されながら主体も失わずフォローは決まり形を抜ける、シーン安定の90゜変の押さえは減らされ、部屋から部屋へ動く角度の対応が結果何かの安心を与える。時代の変化を表すOLやDISでの足早ナレーションはともかく、基礎日常描写は鮮やかさや不意のショックは避け、辿々しく見えても内なる直線性を目指してるようだ。視覚的鮮やかさではなく、人と人は、カット内・カット間で思わぬ内的遭遇・真意のズレや衝突に、予測なく見舞われる。これは映画史上でも珍しい程の力と澄みきった緊張感だ(溜まってる分、ラストの横から、斜め上下の、詠嘆フォロー長く1本めにも無理はない)。コンベンショナルな商業映画話法の安定に流れない、ほぼ全瞬間、実験映画と並べても、真摯さや緊張感では見劣りしないし、より硬質だ。お得意の傾いた図や移動の予測外の流れ続け・リアクションの突き抜けも、十八番というより、偶々通過の感。ウォルシュは、語ることと整えることを落ち度なくやってきた、作家だが、ここではその一面をかなり手離してる。が、その中でか、中でこそか、射殺のツボは、放ちも受けも内から極る。一面側に真が固まる。
 第一次大戦終戦を欧州戦線の大きな爆撃跡への偶然逃げ込みで迎えた、国家勝敗より、日常へ復帰の未来に向いてる、3人の平凡な男たちの戦後10余年の運命。自動車整備工や酒場経営に復帰、そして弁護士への道、のビジョン。しかし、主人公は、戦後の混乱、職場に空き無し満杯で平凡な夢破れ、タクシー運転手を始める羽目に。が、違法で巨大なドル箱、密造酒の隠密運送に向いてて、やはり違法密売してる酒場を持つ戦友に再会、協力一体化。大量の酒を直に造り出しもす。いざこざ対策で弁護士になった戦友を引き入れる。その過程で、アパートで同室だった親友を引き入れ、帰還時、ピンチを救い合い意気でも通じた酒場を纏める女と懇ろに。そして、戦地で文通?してきた少女が成長し見違えるような歌手として訪ねきたをバックアップしていくうち、不可能な予感すら受入れ得る、純粋な愛を抱く。遠い将来と、無理強いは決してしないが、元少女も恩義と優しさに家庭を持つ申込みを断りきれない。しかし、思いと心は、弁護士と一目で通じ、時を刻む毎に、つよく暖かく育まれていた。時代の喧騒に悪へ足を踏入れる主人公には立ち塞がる、情婦の店の主人とか、更に街をしきる顔役が、当然に脅しをポーズしてくる、更には相棒の筈の酒場持つ男も妨害暗躍を。恐れず逆に踏み込み、顔役まで排除して新たなその場に就くも、警察に押収させたその酒群を持ち出し時に、そこの警備員が軍隊時代の殺しても飽き足りない上官だったのを、酒場持つ男が憎々しく撃ち、そこから法のマークが強まり、清廉な弁護士も主人公の裏の姿に感づき、歌手と共に去る。そして大恐慌。酒場持つ男に全てを売り払い、蔑まれて一介の運転者に戻る。歌手の幸せな家庭と偶然接し、内からも落ち込んだところに、歌手が夫の救いを求めてくる。「無力に。返り咲きたいも、時代は変わった」と断るも、罪を暴く弁護士の命を狙う酒場持つ男を倒し、自分も手傷で外へ走り出て命絶える。タッチが稀なる純粋な強度を持ってるは、シナリオを現場で全て作り変えていった、真摯度と正確配慮の筆入れのせいか。画面は映画的な真の充実を問うには、密度の薄い所を抱えたまま進む。それ以上の手応えの予感が全ての瞬間に存在してる形と意志を、成している奇跡、その方が遥かに価値がある。
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 それから10年後、この作家の最後の偉大な映画、60代前半時の『白熱』は逆に手慣れた展開・その無意識迄至るような、揺さぶりの天才的筆致・バランス突抜け予感を、堪能できる。ここでは、世に対し、自分にとっての真新しい何かを投げ掛け、世界を動かす何かの実感を見出だして行こうとする姿勢はない。使ってきた駒を縦横に更に艶と動感の、鮮やかすぎて読み取れぬも確かな手応えを与える腕前。その造られ、納得に密着、密度と巧みタッチ。列車強盗時の速度落とさせ・乗り込みと脅し・別隊が爆破で舞う札束、の列車や車・人らの動き方向の魔術的な錯綜力感と散らばりつつが纏まった力に、スクリーンプロセスや敢えて揺れない列車内らも取り入れての、手の内に招き入れ。それは広い刑務所内の様々な策謀歩きや動き、巨大タンク並ぶ工場に逃げ込んでの夜間に至り、光沢ある質感での新たな空間への逃走と撃ち合い脱落から施設一面爆発連ね、らのシーケンスでも変わらない、あまりの捌きの、翻弄と賞賛度合い呼び込み。一般的会話場でも、無理なくも無駄なく艶かな寄るやフォロー移動、特定切返しの塊り、それへの別要素入りや、心と身体の発作うねりへの沿い方の見捨てなさ、様々な要素が同じレベルでストーリー越えた、世界の複相、それらの平均均質化の腕の細やか複雑かつ堂に入った光沢放ちと、実は冷めてもいる引き込み・格と深み。一方、それは新たな映画世界のあり方を開拓、開示してく手応えの類いではない。
 それは一見絶対的で不可逆神話的進行にも見える展開にもいえる。全ての試みと策は、中途半端に瓦解し溶けて、所詮はフィクション的な現実の、実を持たない積み上げでしかない事を、諦観ではなく、経験で掴んだそれでも美で示してく。後腐れなく、世界は移ろい、各々が端っこを乗せあい、各々に儚い印象は植えつけても、鮮やかであるだけで、生き方にまで拡がる価値は持たないを示しつづける。
 悪名轟く犯罪集団のリーダーは、部下ら・愛人すらもを信じず、その見捨てや裏切り粛清に、迷いない、冷たい非情の男。少しでも証拠を聞き取り、後を引きそうな者は誰彼なく射殺するし、支配域の弱まりも許せず、自ら足場を越えて乗り出す。只、今も同行の母親とその予感と指示は、盲目的に信じきっていて、父や兄からの遺伝か自らの幼少演技が現実化したのか、精神異常が高じての発作の苦しみにも、頼ってる情けなさ。大掛かりな列車強盗のアリバイとして、同日別件事件発生に自首するが、獄中で、集団のヒエラルキー転覆、母は殺され、を知らされ、刺客も送り込みに、脱獄を決行。それも他と同じく一度はポシャるが、遮二無二巻き直す。身を挺して護り助けてくれた者も引き連れ、主導権戻しの粛清や、「トロイの木馬」作戦での大収穫を、彼の助力もあり、成し遂げてく。がその男こそが、細かく危険を排し隠しおおせた、潜入捜査官と発覚し、大詰めで、心と計画を相手の内心も含めて折る。そもそも、母の死の通報から、その死因も人によりあやふやで、その消えた実感がないまま、より巨大望洋とした概念と語り続けてく、夢心地をいつもより強めた世界にいた。火の海にあって母の教えの「世界一」への達しを夢想す。
 TVでだったが、初めてこの作家を驚くべき存在と自覚したのは、『白熱』の強烈さだったが、正体は手練れの落ち着いた、弾けたりしない正確な目の据えかただったと、今更ながら気づく。



 
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