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鉄腕ジムのニューランドのレビュー・感想・評価

鉄腕ジム(1942年製作の映画)
4.5
✔️『鉄腕ジム』(4.5)  及び『壮烈第七騎兵隊』(3.9)▶️▶️

 E・フリン主演の実在の有名な歴史的ヒーロー?の伝記大作、安易ふう2作。驚くほど陰りがなく、主人公に大きな誤りや迷いがない。戦争中の戦意高揚にも繋がる、能天気な映画といえばそれまでだが、敵国意識というより、まだ周囲が気づいてない自国が内から崩壊してく危機感の個人的・本能的な予感、の裏返し表現、その軽さを装った自戒・気概を感じとる。
 『~ジム』。個人的には『彼奴は~』や『永光』と並ぶこの作家のベストだと思ってきた。あまりに陰や捻りがなく只ストレートで、造形的にも単純にひたおしなだけ。単細胞といわれようと、稀に見る風格や正統、その安心感が生まれている。この極上の味わいは比較する作がない。見かけのgentlemanやladyに従う道ではない、楽天的に、手応えとして正対する相手~敵にこそ、共感や共闘、その反面の生の移ろいの実感を得てく、というそれだけの作品で、テクニックも単純で極上の選び抜かれたものだけに限られてる。
 私の亡き父は、女子も含めたあらゆる格闘技の中継に目の色を変えてかぶりつき人間だったがその中でも、ボクシングの中継には完全に入り込んでた。世界最強の男とは、ヘビー級の世界Cには違いない。
 個人的にはヤワなので、予め試合前に勝敗が決められてる、プロレスの虚実絡み演技の方を楽しんでた。がプロレスには映画の名作はあまりな無く、ボクシングはやはりその宝庫。『レイジングブル』『ボディアンドソウル』らのシリアス頂点に対し、拘り少なく人間(相互)の可能性に向かう、楽天性に貫かれた自然派頂点が本作だろう。
 納屋の動物と同列に暮らし、律儀に仕事をこなし遅刻にも大慌ての銀行員、市内交通の馬車の御者がアイリッシュの父の・家族は二人の兄からして喧嘩ボクシングの実践し環境の、これでもかの素朴から、会員制のスポーツクラブや、大スタジアムから湾内の客船ら囲む特設リングまで極力特撮を拒んだ実寸・実景の、大(オープン)セットまで、全く同列の平明さで均質に別け隔てなく正確に描いてく。スタイルは取り分け単純で、その分正しいビジョンが積まれてゆく。単純に寄る等縦移動のそれほど長くないのと、90゜変や正対や対称角度の切返しがメインで進むが、角度取りも移動も斜め位置等が、全方位的可能性と繋がり加わる。さらに表現は、感覚的に拡がる足場を見せてく。序盤の紹介されてくる人物のやや仰角のディグニティ与え撮り。そしてそれと一見対照めの、(大)L(真)俯瞰図の、リングファイトらを包括的に捉える正確さと曇りない暖かみ。ファイタータイプ主流の中での、主人公のシュガーレイやクレイに繋がるアウトボクシングぶりの効果をよく捉えてるが、それ以上に試合中の足運びを中心とした、部位細部の動きや弾む感覚の、天才的速いパン往き来を中心とした瞬時押さえ・対応の磁力たどりの、捌きの挟み入れ。その数々のシャープさ。それら総体が現実であり、それへの掛け値ない最短最良で歪みない接し方である。
 世紀の変わり目か、まだスポーツとしてのプロボクシングが模索確立途上で、取締りにもかかるケースもままあった頃を描く話で、全てに面白いが、主人公とヒロインとの距離の推移が一際味がある。大して野望もなく、好きに惹かれて、流れと偶然らの運命でヘビー級チャンピオンにまでなってゆく、上流では決してない平凡な男。彼に近づいてくようで、突き詰めで反目に戻るが、彼に無意識な注目を手離せず、知らせず難航するスポンサーになったりもしてる、新興ブルジョアー社交界名士の娘。彼女には相応な婚約者があり、試合の対戦相手の側に肩入れしており、彼の品のない、というか、忌憚なさ婉曲のない突いてくる物言いに、プライドから軽蔑の撥ねつけをせざるを得ない。が、それでも表立てず、彼を追い、助力姿勢を疑わずを、本能的に貫いてく。本人も言うように、出自はその父の、一代での鉱山成金で、貧しさを覚えてる幼少期の記憶を持ち、父と共に成功志向と言うより、キラキラ感じられる、魅力感じるもの・新規のものに目移りし、それを押さえて貪欲にものしてきただけだ。主人公の、興味ある拳闘に、堅実な銀行窓口の仕事を気にしつつ、振り切って、進ませる、生来か男家族の環境のせいか、飛び抜けた試合センス。彼には成り行きで、何かに飛び付き賭ける意識はないので、女の姿勢は権威や見返りに媚びたものにしか、見えない、当初は。しかし、内に求めるか、自分の外に求めるか、だけの違いで二人は、純粋に前しか見ない、自分を曲げない、他人の真情を共有・深い世の倣いに殊勝な、(前チャンピオンも介し結ばる)同類の、素直に「好き」を感じる向きを突き合わす関係だと通じ、更に「愛し」合ってるに進めてくに直ぐ、一気抜けのラストの唖然・痛快。
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 映画は個人を越えて時代とシステムの勢いで創る面があるので、どっしり大作主義や玉石混淆の乱発作家には無理だが、数年間に、年に複数本発表も当たり前、ごく僅かの例外を除き、計10本前後の(大)傑作を連発し続けた、正に話題的にもノリからも時代の寵児を経験した作家ら、を確認できる。知る限り、戦前のルビッチ・ヴィダー・小津・田坂、戦中戦後のフォード・ロッセリーニ・成瀬、NV前後のアルドリッチ・ゴダール・三隅、世紀終盤のアルトマン・ファスビンダー・神代・相米、世紀を跨ぐ今岡・洪ら。その中にあっても、『彼奴は~』から『~ジム』にかけてのウォルシュは圧巻、一際輝かしい。その間の代表的傑作を選ぶとしたら、『彼奴~』『~シェラ』『~ジム』らでなく、『壮烈~』か。内容も様式も、変に趣味や屈折に嵌まらず、誰に向けても~先住民らへの先見性も~オープンで、早まらず、欠点もある人間味も忘れず、親しみと活力を感じる万人向けの傑作叙事詩だ。カスター将軍が先住民をそんなに大事にし、彼に止めを刺すスー族の長も霊の眠る聖地の拘りに留まる懸命さは、当時としては先見の明的なポジションだったのか、人気スター向けの方便なのかは、知らないが心地いい。最初の士官学校時代からの障壁者から、帰郷時の加人将校、更にはカスター以前の規則違反最多候補生の現大統領迄、終盤で再会してく構成のお決まり(敵対ライバルも、同調か鉾収めに)。初っ端から規則違反続きも、正規「入校」ではないので「退校」も無効、居座り。武術1番で筆記最下位も、士官学校も分裂・離脱の南北戦争勃発。カスターは、欠員や実戦向きで、若くして准将に繰り上がる。命令に反す積極性で、武勲と信用・人気がぐんぐん上がる。すぐ上位(の偶然同じ者ら)からの、封じ込めや、「名(声)を金と結び付く位置」への誘いにも生涯応ぜず、生来の正直さ・豪放磊落さ・行動力で、軍や国の中枢の助力・意中の運命の女性(難物の商売人の父いるが)・軍籍を越えた有能部外・民族を越えた理解と敬意、らを不可思議に得てく。戦闘の中毒にならないよう、英雄となった後は軍籍を離れるに従うも、虚無に陥り酒に溺れ出す。妻の陰の働き(トップ将軍への異例直訴、夫には知らせず)で、中佐待遇で復帰。故郷を捨て西部へ、先住民反抗の押さえ部隊を率い、作り上げる。ここでも寧ろ敵は白人側で、旧知の営利本位者が、敵味方かまわない武器と酒の販売、それを止め自らも酒を封印、強力一体部隊育成で、先住民に、その気概と聖なる地域は保全する約束で鉾を収めさす。しかし、その聖地すら、ゴールドラッシュのデマと体制権威の利用で奪取の動き。先住民全部族決起、白人皆殺しの危機に、自ら捨て石となり、間に入り命を失うも、民族間危機を友好に戻す主人公。
 生気(精気?)だけが漲ったような主人公が、ルール・命令、その背景の、実体の無さや策謀の渦を体感してゆき、真の強さの為の自制規律と・枠を超えた尊重尊敬し合う念を貫いてく、という流れには、際立ったスタイルは必要ない。WIPEらで矢継早に進むようで、一枚一枚、均質に繋ぎ位置を与えるられるだけだ。行き来き前後するフォローややや複雑縦め移動も、(俯瞰め)隊列並びの伸びとその角度変も、登場人物畏敬のやや低く仰った図らも、激しい速度とアクション対応の戦闘シーンも、戦闘中の傾き図も、微笑ましい浅め切返しも、忍び逢瀬の合図や速攻動きの移動やカット組みも。映画的流れをつくるうねりは不要で、あくまで平明に、ケレンなく、疑いのないカットら。余韻も不要。単純すぎとも見える明るさの裏に、無意識対峙の時代とその染められるものへの、明確な意識がある。それは、二本共に潜むもの。共にこの役らには彼しかいないという、スターが演る含蓄ある巾が味わい深い。
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