心優しいが気弱で、親の介護をしながらコメディアンを夢見て細々と暮らすアーサー。
いとも簡単に暴虐が見過ごされる薄情な世界で、彼の居場所はあまりにも狭い。
みすぼらしい彼に対する世間の目は冷たく、ただでさえ狭い居場所は日々削られてゆく。
極限まで差別と偏見に耐えてきたが、護身用で同僚から受け取った銃がきっかけで理性のタガが外れ始める。
感情のままに報復を繰り返し、社会への苛立ちを共有する一部の市民からは英雄視されてゆく始末。
それまでの彼にとってのコメディは辛い現実を忘れさせてくれるひと匙の砂糖のようなものだったが、ジョーカーを自認して以降は見過ごされた不平等を狂気に変換して観客に突きつける劇薬となる。
もちろん無意味な暴力で笑う人間なんていないが、歪んだ表現は今までにない反響を呼び結果として彼をあらゆる抑圧から解放した。
そもそもアーサーの突然笑い出す病気だってストレスから来る回避行動でしかなかった。
では責任の所在はどこにあるのか。彼をジョーカーにさせたものは何か。
この映画では安易な解決を避け、ただ原因を可視化する事に終始していた。
身近な人の親切さえこうなった彼を救う事はできず、ディストピアと化したゴッサムを狂気と絶望が取り巻いてゆく。
完全にジョーカーとなった彼は直接自分を傷つけていない人物にまで危害を加えるようになる。
しかし、これは因果関係がねじれているだけで無差別犯罪ではない。いわば反差別犯罪だ。
これは酷いエンディングだ。救いようがない。
あえてアーサーの前に救いをちらつかせてそれを取り上げているのだ。
「アーサーがジョーカーになる」という結論が前提だからこそできる筋書きで、無名の弱者男性が闇堕ちするだけの物語ではここまで観客に受け入れられる事はなかったかもしれない。
自暴自棄になる選択肢を提示するこの映画に救われる人がいると思うと胸が痛むし、実際少なからずアーサーに共感する部分はある。
これはフィクション作品であり過剰に引き込まれてしまうのも良くないのだが、現実の非情さをあまりにセンセーショナルに映像化しているので自分にとってはある種の線引きが必要な作品だった。
本来はヒーローなき世界のヴィラン誕生譚といった位置付けの作品なのだがあまりに生々しく、あえてのユーモアの欠落がそれを加速させていた。
暴力描写ではなく世界観のいたたまれ無さから、劇場鑑賞を避けて正解だったかもしれない。