こうみ大夫

ジョーカーのこうみ大夫のレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.5
終わった瞬間、劇場を出るとそこは新しく東宝が作りやがった日比谷の絢爛なビルだった。日々映画業界は奴隷のような扱いを受けつつもクオリティだけはプライドを持とうと闘うプロたちに支えられてる。情けなくて飛び降りたくなるよね、こんなビル。
ジョーカーはモーセだった。犯した過ちが過ちだったのか、それとも迷える者たちを導く救済だったのか。永遠に答えは出ないことのような気がするし、歴史や時代が後にそれを定義づけるだけで、答えなど実は無いのかもしれない。
デモだなんだを、論理的でないと批判する人たちがいる。しかしそれは間違いだ。デモはいつも気が狂ってると言われて始まり、いつの日か世の価値観の逆転が顕れる行為だ。論理だけでは勝てない、そんなソーシャルが存在する。デニーロとホアキンのラストの舌戦。まさに論理と感情の闘いだった。デニーロの言うことは正しい。全てだ。しかしそれでは社会の納得は無い。ウィキリークスが、立花孝志が、在特会が、沖縄のデモが、山本太郎が。感情の波を「狂ってる」の言葉で片付けてはいけない。社会のうつけ扱いされる人々の感情をソシオパスのような言葉で片付けてはいけない。
関係ないかもしれないが、「笑い」の市民権を誰が得るかという議論は興味深いと思った。ゴッサムでは一部の上流階級にしかチャップリンは与えられず、人を罵る笑いは喋ってはならないものとされている。これは最近Aマッソ・金属バット騒動でもあった事例と重なる。けれども笑いの世界はどうなっているだろうか。下層で育ち、人を罵る、根暗な人々が笑いを提供する芸人のトップにいるのだ。「笑い」の市民権を得るのは最終的にそうした苦しんできた人々のものである、というのは皮肉であり、また同時に喜劇でもある。
ジョーカーの描く何かは、言い表せないけどそういう点なんじゃないかと思いつつ、Aマッソ・金属バットの不謹慎ネタで救われてるからやめさせないで…と書き込んでいた名も無きTwitterのことをふと思い出した夜でした…。
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