LEONkei

運び屋のLEONkeiのレビュー・感想・評価

運び屋(2018年製作の映画)
2.5
映画の中で〝クリント・イーストウッド〟が〝ジェームズ・スチュワート〟に似てるって見知らぬ男に声をかけられるが…。

高身長の老人をダブらせても似ても似つかない二人も、イーストウッドはこのさり気ないフレーズに様々な意味合いを込めているように感じる。



若者から見れば老人は皆、只の老人にしか見えない。

コンビニ前で屯ろする若者は、只の若者。

横断歩道で信号待ちしているスーツ姿のサラリーマンは、只のサラリーマン。

友人たちと自転車を漕ぎながらお喋りする女子高生は、只の女子高生。

河川敷のグラウンドで泥まみれになってノックを受ける少年は、只の少年。

スーパーで今夜の晩ご飯のオカズを品定めする主婦は、只の主婦。

1つの視点で総体的に見れば同じに見えるのは仕方のない事だが、当人からしてみれば『勝手にヒトククリにするなっ』と言う気持ちになるだろう。



何故、同じ様にヒトククリに見えるのか…。

それは1つに他人に対しての無関心さから来る総体的視点。

子供は…若者は…男は…女は…そして老人は…、気付かぬうちに人は皆それぞれの固定観念で人は〝こうあるべき〟〝こうでなくてはいけない〟とレッテル貼りをしている。

表向きは何事もないように装って見える人々も、誰もが何かしら悩みを抱え生きているのが人間。

一人一人と話せば其々違った個性を持ち、魅力を探せば誰もが人間的に面白いんだと分かるに違いない。

世代や環境が違えば理解できない事も多々あるが、その違いが当たり前の事・仕方のない事だと周囲が理解し接すれば、この老人も『運び屋』にならなくて済んだのかも知れない。

物語は時代が変化する中で生きる老人の衰えの物悲しさと、悪意のないシニカルで時代遅れの老人を滑稽に描いている。

〝クリント・イーストウッド〟の保守的な描き方は温故知新の極みで好みだが、この作品が実話であろうとも老人の『初めてのお使い』的な軽いヒューマン犯罪コメディとしか観れなかった。

只、ポークサンドは是非食べてみたい。



世間は冷たく厳しく個人主義が蔓延する時代で、人情のカケラも消え失せる。

無関心は人を殺す..★,
LEONkei

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