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キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのarchのレビュー・感想・評価

4.1

まずは原作との決定的な方針の違い、つまり脚色の方向性を看過した上での全体的な評価を書く。その後に、そもそもその脚色の方向性に問題はなかったのか?という話をしたい。(原作読了済み)


前提。映画の舞台は、20世紀初頭のアメリカ。オセージ族はその他ネイティブ・アメリカンと同様に19世紀末の政策によって故郷を追われ、チェロキー族からポーハスカ周辺を購入し定住した。そこは"涙の道"の終点と呼ばれるほどの悲惨な、価値のない土地であった。
しかしその土地でブラックゴールド、つまり石油が発見され、全てが一転する。オセージ一族が土地権利関係の契約を行う際に、既に地下資源の存在をしていたこともあり、それらの石油で得られる利益はオセージ一族に入ることになり、彼らは世界で最も裕福な一族となる。
1921年、政府は彼らには金銭の管理の出来ない「無能力者」として後見人を介してしか、自身の財産を引き出せないような法律を立てる。白人による迫害と彼らオセージ一族の苦境は終わらない。それどころか彼らの財産は多くの白人によって狙われ、20年代以降の恐怖時代到来のきっかけを作ってしまうのだった。




この映画は原作には描写されてないアーネストという白人男性が除隊してポーハスカに帰還したところから始まる。そのことからも分かるように、本作は彼を中心に据えた物語となっている。
原作が法廷証言や書類、インタビューを整理し、多角的な視点で構築されたノンフィクションである為、物語として脚色する上で、誰か主人公を立てる必要があったのは理解出来る。トム・ホワイトを主人公するという手はあっただろう。だが、当時トムホワイト役をオファーされていたディカプリオとのやり取りの中で、彼がアーネストを演じたいという要望があり、脚本にかなりの変更が加わり、現在のアーネストの視点で描かれる物語となったそうだ。

その結果どうなったかというと、加害者視点でオセージ一族連続殺人事件を描くというかなり「奇妙」な事態が発生したのだ。
何故奇妙かは、最後に書く「そもそもこの脚色方針ってどうなの?」で説明するとして、この事態が起こりうる理由も分かりはするのだ。つまりこれはスコセッシ作品だということ。
この映画で誰を主人公にするのかと考えた時、最もスコセッシ作品らしく、板挟みの中で破滅していく人物(死なず、生き残ってしまうというのが肝)は誰なのか、加えて中身スッカラカンが似合うディカプリオが演じるのならと考えたとき(ディカプリオとは2017時点で契約されているので、主人公が彼というのは早期に決定されている)、アーネストというは妥当なのだ。
トムホワイトもまた語るべき物語があり、FBI誕生の物語としても、vsヘイルのクライムサスペンスとしても見応えがある映画にはなっていただろうが、それはスコセッシじゃなくてフィンチャーにでも撮らせておけばいい。スコセッシが撮る必然がアーネストというキャラを中心に据えたことで生まれたのだ。


ではそれ故に「加害者視点」で描かれることになった本作だが、この書き方だけでは少し誤解を産みそうである。なのでより詳細に語るのならばこの映画は
「意思決定を他者に委託したが故の加害者意識の希薄な男の視点」
で描かれていると表現するのが正しいだろう。

愛嬌の裏で陰謀を張り巡らせるヘイルを根本的な悪として配置し、アーネストの行動がヘイルによってコントロールされ、平気で人殺しに加担する様を描く。そこに本人のイデオロギーや目的は一切ない。ヘイルに命令されたからでしかない。
一方でモリーへの愛情は丁寧に描かれ、彼の中にある娘や妻への愛情、及び道徳心は確かにあることは証明されてる状態なのだ。

この映画の白眉はそんな板挟みの状態でアーネストが妻の親類や知人友人に直接的にも間接的にも手を下し、尚且つ妻に毒を盛りながらも、妻に「愛している」と本気で言う男として描かれていることにある。(『グッドフェローズ』のレイ・リオッタを思い浮かべる人もいるだろう)

実際に現実でもそういう人間だったというのだから恐ろしいわけだが、その空虚さから来る矛盾、認知の歪みが、ディカプリオの演技や演出を通して見事に表現されているのが素晴らしい。演技方針としてアーネスト本人は終始ヘイルに脅え、ヘイルの威を借りて虚勢を張っている感じが、彼の空虚さを端的に表現していたし、ヘイルの言葉を正しいと強引に信じようと、自分を納得させるかのようにヘイルを褒めたりするシーンも良かった。
これらは戦争帰りでヘイルと最初に会話しているところの脚色が見事に効いており、一発でアーネストの人物像を伝えることのできた場面になっていた。

演出としては彼を追い詰める人々を徹底的に描く方針で、彼の脆い信念が挫ける様を描いていた。例えば印象的なのは、白人のみがいる屋内の暗い空間だ。あそこまで行くと一瞬の抽象的な空間にすら見えるような場所で、アーネストは周りにいる白人に詰め寄られていく。あの空間は照明を敢えて強めに肌にあて、背景を暗くしているのでその"白さ"が際立つような画面設計になっていて、明確に恐怖を煽っている場面として凄まじいものになっていた。彼の信念の無さ、空虚さは逮捕後の2転3転する証言に最も表れていると思うが、そのきっかけとなる弁護士や石油会社社長との面会シーンはこの映画で最も恐ろしいシーンの1つだろう。

そんな風にして、スコセッシ作品らしい主人公は、遂にはモリーに愛想をつかされ終わるという結末にたどり着くわけである。モリーはその直前までアーネストを信じていたことが伝わるようになっていて、だからこそ決定的なシーンとして最後のやり取りが描かれていて良かった。

脚色として面白いと思ったのは、ビル夫妻の家の爆発シーンで、ちゃんとモリー達がビル家に行くことを止めたシーンを入れている点。原作ではモリー本人の体調に問題があり、ビル家へ行かなかっただけで、全然いく可能性があった。つまりそこで、妻と子供が爆死する可能性を看過していたというというのが事実だったのだ。多分、この映画は事実以上にアーネストの愛情を大きく描こうとしており、その脚本方針故だろう。
またアーネスト本人が、インスリンに毒を混ぜていた。そしてその毒を知らされてはいないとはいえ、疑いながらも結局混ぜて妻に打っていたことにしているのも上手い。まさにアーネストという男の本質が表れている。原作ではアーネストは毒については知らされていないというような記載で留まっていたはず。上手い脚色だ。(脚色で損なわれた部分は後述する)


アーネスト等ストーリー以外にも触れておきたい。劇伴はロビー・ロバートソン。『ラスト・ワルツ』で関わって以来、多くのスコセッシ作品で劇伴を担当した彼の劇伴は本作でも存在感を発揮しており、映画の始まりを「Osage Oil Boom」での腹に来る低音で迎え、映画全体を民族音楽的かつ不穏な旋律で緊張感を作り上げていた。スコセッシの既存曲使いは今作では完全に封印しているのも特徴。そこに扱う題材への誠実さを感じる。

映像に関しては、既に上述したが、屋内でアーネストを心身ともにしばくシーンなんかが良かった。空撮が意外に多用されるのも印象的で屋内のシーンから一転、オセージネーションの広大さを活かした画面設計になっていた。
加えて編集が凄まじい。長年の相棒ともいうべきセルマ・スクーンメイカーの軽快なモンタージュが冴え渡っていた。軽快なテンポながらも決して軽くない場面を唐突に繋げるので、モンタージュによって表現されているのは無情感なのだ。
1番やばいのは、アナの殺害シーンを法廷でのモリソンの証言に合わせて描くシーン。アナの死体が転がり、動かなくなったかと思うと、次の瞬間リトルアナに場面が切り替わる名前でのマッチカットになっており、強烈だった。時制や場面を次々と切り替えていくので、分かりづらいと感じるのも無理ないが、自分は原作を読んでいたから問題なかった。

あと最後に本作を映像化する最大の意義であろうオセージの文化を映像化した点について語りたい。
原作でも言葉として色々説明されてはいるものの文書故にかなり詩などの文字情報によっている印象があった。
だからこそ映画として部族会議の様子や雄叫び、結婚式や葬式などを視覚的に描けているのが良かった。白人の同化政策によって失われつつあるものを、オセージ族監修のもとで描かれているのは大変意義があるし、僅かながらでも贖罪になりうるのかもと思った。

大変素晴らしい作品であると思っていることはここまで読んでくれれば伝わると思う。





だが敢えてここからは「そもそもこの脚色方針ってどうなの?」って話をしたい。
そもそも原作の構成はクロニクル1,クロニクル2,クロニクル3の三部構成で、オセージ族に訪れた恐怖時代の概要と、トムホワイトによる捜査及び事件解決までの流れ、そしてこの問題の本質をえぐるような数年越しの新真実にたどり着くまでの話で構成されている。
ノンフィクションではあるが、1と2はある種の振りであり、原作の肝はクロニクル3に詰まっているといっても過言ではない。

だからこそ本作の脚色方針は「奇妙」という他ない。それは映画では冒頭のヘイルが狂人だとバレる以前のシーンで連続で殺されているシーンに集約されていて、印象に残りづらく、映画にはその原作の肝が描かれていないのだ。
クロニクル3が言いたいことは、この一連の殺人事件は氷山の一角であり、ヘイルという並外れた狂人が起こした一過性の犯罪ではないということだ。
著者が調べれば調べるほど、未解決の事件が浮かび上がっていく。そのどれもが捜査すらされておらず、その理由が被害者がオセージ族だから、という根本的な差別意識に由来することをまざまざと見せられ、これは後見人制度などによって差別構造を温存してきた社会によって生み出されたあらゆる"白人"が"ネイティブ・アメリカン殺し"の事件の当事者であると言い切る。それがクロニクル3の内容なのだ。

差別による虐殺の話ではあるだろうが、KKKなどの差別意識が暴力へと発展して殺しになるといったケースとは少し違うと思っている。お金が欲しいという欲求(オセージ族を殺すという欲求)とそれを引き止める良心の呵責、その両者の乗る天秤が差別意識によって簡単に壊れて、非人間的な行為に容易に傾倒しうるというのが一番恐ろしいところなのだ。

だが、この映画はヘイルという狂人が起こした行動に回収してしまっている。ヘイルの逮捕で全て解決したかのようになっている。その後を多分毒殺は続いたであろうし、まだ誰が犯人なのかも分からない未解決事件は山のようにあったはず。それについて言及せず、これは氷山の一角でしかないと裾を広げずに終わった本作はやはり原作を知っていると消化不良感は否めない。

また脚色によって損なわれたクライムサスペンス的なテイストは勿体ない。特に事件解決の困難さやそもそもトムホワイト登場以前、オセージ一族というだけで全く捜査がされなかったという驚愕の事実についてはほとんど描かれてなかった。その困難さの裏には、白人のオセージへの差別意識がある訳で、やはりそういう「差別意識」というのが極端にカットされた印象である。


私の創作鑑賞への心構えは原作史上主義者へのファックユーに満ちており、そもそも媒体が違えば、それは既に別物として楽しむ他ないことを理解してない阿呆のことを心底バカにしている。なので原作を読んだ上での鑑賞を決めた時点で、その脚色方針の是非については問うつもりはない。
なのでこの文章で書いた後半は書かなくてもいいかなと思った部分でもあり、余談だと思って欲しい。これ自体が本作の価値を下げるわけではないと思っている。なぜならこの映画は映画だからこその快楽に満ちており、小説には描けない、映像という表現だからこその意義をちゃんと感じさせる作品だからだ。

最後にタイトルについて。原作ではタイトルの意味が分かりやすく紹介されるが、本作においては空撮によってオセージ族が一つの花のように描かれる。そのラストショットによって、オセージ族こそが「花」であり、花が大量に殺される「花殺し月」とは、正しく『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』で描かれたことを指していると分からせるショットになっており、心底感服したのだった。
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