マーガレット・クアリーの映画観てます②
NetflixオリジナルのSF映画。
共演はMCUのNewキャプテン・アメリカ、サム・ウィルソンことアンソニー・マッキー。
【物語】
地球規模の汚染により、人類の大半は"エクソダス計画"によって地球から追い出されるように木星の軌道上に漂う衛星"イオ"へと向かう。
一方、地球の再生に希望を託していた科学者、ヘンリー・ウォルデン博士の研究をたった1人、地球上で引き継いだ娘サムは、"イオ"にいる恋人イーロンとのテキストメッセージを送り合いながら孤独に汚染を避けつつの生活を続けていた。
ある日、サム同様にいまなお地球に残っていた男マイカが、彼女が無線で発信し続ける父のメッセージを聞きつけてやって来る。
地球からの最後の脱出船が旅立つまで残り数日。
発射場まで行くにも資源の限られる2人は、このまま地球に残るか、"イオ"に向かうか、選択を迫られる…。
【感想】
とても地味な映画だった。
SF映画の装いではあるものの、エクソダス計画、イオ、ユピテルなど、登場する用語はギリシャ神話を想起させる。
それもあってか、登場人物はサムとマイカのほぼ2人ながら、この映画の帰着はパーソナルな物語というより、どこか人智を超えた視点が含まれているように感じた。
なにしろ劇中、サム自身がマイカに言う言葉「しなくちゃ(We have to.)」がそんな世界観を暗示しているように思う。
「〜した方がいい、〜したい、〜すべき。」でもない。
「〜しなくちゃ。」
地球最後の脱出船が飛び立つ残りわずか数日という極限状態において、個々人の想いは抜きにこう言葉をこぼす彼女の姿は、正直映画として感情移入はしづらいけれど理解はできる。
本作、このような感情移入しづらい展開が単調に続く。
そして輪をかけてギリシャ神話の用語が2人の会話に出てくるから、詳しくない自分としてはより飲み込みづらい。
鑑賞後に調べると、サムが残りわずかの地球生活で見ることを望んでいた『レダと白鳥』の絵画はルネサンス期のコレッジョらが描いたものではなく、セザンヌの絵だった。
もしかすると、この辺りの神話やモダンアートを含む絵画に詳しい人からすれば、それが意味するコトの深みは増すのかもしれないけれど、正直自分はポカンだった。
ただ、ポカンではあったものの、ラストシーンで描かれる"2人"の姿は、人類がみんな"イオ"に向かったとしても1人惑わされずに己を貫いたサムの行動がもたらした希望の表れだったのだろうなと思った。
「しなくちゃ」
この言葉が出るほどの境地に立った、彼女の人智を超えた凄さ。
主演のマーガレット・クアリーは、まだ数本しか出演作を観ていないながら、思えば個人の意思とは裏腹に制御し切れない運命を辿る女性を演じることが多い?とふと思った。
たとえば『哀れなるものたち』では主人公ベラがいなくなったあと、ゴドウィン博士と暮らす女性、フェリシティを演じていたけれど、彼女も自分の自由意志などなくあの家での生活を強いられていた。
また、『ナイス・ガイズ』でも一見奔放そうでありながら裏社会に翻弄されるキーパーソン、アメリアを演じていたけれど、彼女の辿る運命もまた、彼女に自由はなかったといえる。
このように、奔放さと不自由さ、が似合う?女優さんなのかな、とちょっと思った。
思えば『ワンス・アポン・イン・ア・ハリウッド』で彼女が演じていたプッシーキャットも、ブラピ演じるクリフ・ブースを誘惑する魅力がある一方で、マンソンファミリーの一員としてどこか破滅的な雰囲気が漂っていた。
本作で彼女が演じるサムは、亡き父の遺志を1人継ぎ、生き抜くには厳し過ぎる地球環境のなか賢く逞しく生きる一方で、彼女以外だれも人間はいないのが当たり前の孤独な世界で大人になった悲痛さが漂う。
彼女にとって、人とのコミュニケーションは唯一、テキストメッセージを送り合う恋人イーロンだけ。
他は亡き父が残した音声メッセージや当時の出演番組のビデオぐらいで、地球を置いていった人たちが残した美術本に思いを馳せることしかできない。
そんな彼女が、マイカと出会い、親しくなっていくなかで不意に見せる笑顔はずっと孤独だったことを思うと「良かったね…」と思った。
彼女の印象的な目と笑顔、これがプッシーキャット然り、アメリア然り、フェリシティ然り、そしてサム然り、観終わってどこか後ろ髪引かれる余韻を残す。
そんなことに、点と点を結び付けて気付かされた一本だった。
彼女の出演作を観よう、と思わないと恐らく観ることはなかったであろう映画だったし、内容も地味〜だったけれど、この独特な世界観と彼女の存在感が、観終わったあと、少しの余韻をもたらしてくれた。
ただ、しばらく経てば忘れてしまいそうな、そんな地味なSF映画でした。笑