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我輩はカモであるのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

我輩はカモである(1933年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

 正直、笑うに笑えない箇所が多かった、自分にはハマらない部分も多々あり。技術として、やりとりとして興味深いところはあったけど、例えばダジャレの下りとか、早過ぎて追えない笑(言語の壁でかめ)。またかなり暴力的なギャグも多く、笑いというかナンセンスとして自分はそれらを受け入れた。風刺以前に全てを小馬鹿にしているから、風刺とも言えない気がする。後のチャップリンの「独裁者」(1940年)の先駆的存在としては、理解できるが。

 マルクス兄弟作品自体、初めてみた。兄弟ならではのやりとりの巧妙さは、鏡のシーンで発揮されたりしている。また、キャラ立ちが凄い。めっちゃ喋るグルーチョ、イタリア語訛りのチコ、喋らないハーポ。絶妙なバランスだなと思った。面白いけど、「なんやこいつら腹たつなぁ」が若干勝る笑。

 というのも、彼らは進行していく物語を悉く挫いてしまい、妨げる。会話シーンでのグルーチョは、全てギャグやダジャレ、あべこべで会話を阻害するから、まぁ話が停滞する。ただその飄々とした立ち振る舞いがカッコよくも見える(気のせいか、なんか中年頃のゴダールっぽくない?)。チコとハーポのタッグも、相手を邪魔して彼らの会話や行動を阻害する。特にハーポは、喋らないのに、その身のこなしの技術によって事をめちゃくちゃにする。これが爽快にも感じるし、不快にも感じた笑。笑う前提の演出だから仕方ないけど、不条理劇ですよと言われれた方が納得できた。そう、結局彼らは、如何にして物語を邪魔するかしか考えていないのだ。ゲーム的なやりとりなのだ。

 ピーナッツ売りとレモネード屋の喧嘩。ここは、本当に映画における魅力的な無駄の詰まったシーンだ。隣の露天屋のレモネード屋の男とチコとハーポの帽子をめぐる暴力的で冗長だが笑えるシーン。3人で帽子を被りあってらちがあかない下りは、ひょっとして後の「ゴドーを待ちながら」に影響を与えているのでは?とさえ思った(調べたらこの二つの関連性を言及している記事が多々あった)。ベケットが見抜いたその無駄なやりとり、そう、ちょっと前に見た「家族ゲーム」のゲーム性と同じで、意義とか目的の無い、しかしそれが人の生きるやり方。そんな馬鹿げたやりとりを笑う時、人生は無意味だからこそ笑えるのだなと実感するのだった。結局、今作品での下らない発端での戦争は、つまりなんの大義もそこにはないことを表し、まさに史上最大のゲームでしかなかったとでも言わんばかりに。「ゴドーを待ちながら」を、戦後荒廃した地を想定して描かれたと仮定すれば、今作品の無意味な発端の戦争から、荒廃した地でも今だに無意味なゲームが続くという、「ゴドー〜」と今作品を地続きに考えることもできるだろう。あの一本の木で待つ二人は、チコとハーポなのかもしれない。

 「戦争だ!」のミュージカルシーン。wikiで調べると、グルーチョが今作品を「狂気が過ぎている」と評していたことを知る。それが一番顕著なのがこのシーンだろう。どこまでもアホくさく笑えるこのミュージカルシーンは、しかしそうしたアホくさい熱気によって戦争が始まってしまう人間の愚かさに気がつかせてくれる。そうなると途端に恐ろしい、バカにしているはずが、実は実際の戦争の始まりを忠実になぞっているようなものだから。バカは、戦争の心理だ。だから、どこまでバカにしても、戦争自体をバカにできない。バカをバカだと言う同語反復、批判は伴えない。チャップリンが「独裁者」で、ラストシーンを今作品に倣うようなドタバタパイ投げシーンから、シリアスな演説シーンに挿げ替えたのも、おそらく戦争を真に批判するためだったのではないだろうか。恐ろしい、だからこのシーンの狂気は、決して笑いだけに止まらなかったのだ。

 「援軍が来るぞ!」で、抜粋された無関係なニュース映像を繋ぐことで、全体主義の戯画を演じる巧みさ。ブルース・コナーが「A Movie」(1958年)を作る際にインスピレーションを受けたと語っていた元ネタシーンをやっと見れた。なんでも繋いでしまう映像のおかしさを、後者はこのシーンから見出している。爆速で来る象は、「A Movie」へと受け継がれる。

 無意味だ、戦争だ、勝ち負けだ、しかし全て笑おう。人類に残されたのは、変わらないこのゲーム性の中で最後まで笑えるかなのかもしれないな・・・あの鍋の中のアヒルのように、煮えたつ鍋の中笑い続けるしか・・・。と、なんか絶望的な締めくくりをしたが、映画はあくまでコメディでしたので。時折ブラックで暴力的だが(拒否感もあったが)、全編全てをバカにして笑い飛ばそうとする気概を感じた。ちょっとクセになる笑い、他も見てみたい。
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