そーた

メトロポリスのそーたのレビュー・感想・評価

メトロポリス(1927年製作の映画)
4.0
SFの頂点

どんな映画にも正しい解釈ってのがあるのかもしれませんけど、
僕は僕なりに感じた事を書いていきたいと思ってます。

観ているときに頭に浮かんだ印象や思い付きを大切にして、それらを膨らませ、飛躍させ、それっぽくしていく。

詭弁と言われればそれまでだけれど、面白い発見が少なからずあるものです。

この映画もそうしたスタンスで楽むことにしましょう。

フリッツ・ラングはこの作品で摩天楼という言葉を絵にかいたような近未来の世界を作り上げました。

ただ、その世界は特権階級と労働者が完全に隔てられた管理社会。

格差という問題を内に孕んでいました。

そんな、対立構造の中で特権階級を脳、労働者を手と見立てて、「じゃあ、心は?」ってな具合に話が進みます。

その心の出現を宗教的に予言する少女を軸に、特権階級の権力者、そしてその息子、マッドな科学者、労働者達が徐々に絡んでいきます。

その少女をモデルに一体のアンドロイドが作り上げられます。

C-3POのモデルになりました。

そのドロイドが、時に人々を幻惑し、時に人々を扇動したりして、メトロポリス全体を退廃させていくわけです。

人々はドロイドの巧みな話術とか仕草に魅了され、熱狂していきます。

特権階級の男どもが露出の激しいドロイドの妖艶な踊りにムラムラしていくシーン。

それが、凄い滑稽なんです。

男を誘惑する彼女の踊りがヘンテコでヘンテコで。
そのヘンテコな踊りに男達が魅了されていく。

このシーンは人間が欲に支配されていく様を描いた場面。

それが滑稽に見えてしまうのは、サイレントならではの大袈裟な動きに大きな原因があるのでしょう。

でも、このシーンの滑稽さって人の欲望それ自体に対して感じているようでなりません。

欲を否定する訳でなく、人の本能的な部分の滑稽さを見せることで、欲の歯止めとなる理性の存在を暗にちらつかせているように感じてしまうのです。

滑稽さを感じるシーンはもう1つあります。

権力者の息子が労働者に成りすまし、労働に従事するシーン。

大きな文字盤を前に時計の針みたいなものをひたすら光る部分に合わせるという謎の仕事をする。

これがまた、なんとも滑稽で。

仕事に支配されるということを揶揄しているようにもとれますね。

ここでも理性的でない仕事のバカらしさみたいなものを感じます。

それでね、どちらのシーンからも人が理性を失うことの滑稽さを感じてしまうの。

「脳と手の媒介者は心でなくてはならない。」

冒頭に登場するこのセリフ。

心を理性と捉えるならば、脳も手も理性を必要としているということです。

それがなければ、ただただ滑稽なんです。

脳も手も、それぞれが複雑で非常に高度。

でも、理性の介在がなければ、科学の粋を集めたドロイドに滑稽な踊りをさせるようなものなんです。

じゃあ、理性って何でしょう。

それは、分かりません。
でも、どんなものだかは逆説的に示せるのではないか。

人類が最初に経験した世界大戦は理性的だったでしょうか?

過度な資本主義の追求は理性的なのでしょうか?

社会主義の説く階級闘争は理性的なのでしょうか?

現代の感覚から観ても見劣りすることない、圧倒的な映像美をもつこの作品。
時代背景に沿った鋭い問題提起を内に秘めていました。

SF映画の原点にして頂点。
言い得て妙でした。
そーた

そーた