クェビン

サバハのクェビンのレビュー・感想・評価

サバハ(2019年製作の映画)
3.8

感想後にもよく理解できない方のために細部の整理。




=================(スポイラー注意)=================













※名前のモチーフ
▲キム・ジェソクの「ジェソク」は、ナルトとか、ヒンドゥー教&仏教で言う雷神「インドラ」。帝釈天の「帝釈(ジェソク)」の韓国語読音。(四天王を配下に従えている)
▲広目天のチョン・ナハンの「ナハン」は、「羅漢(ナハン)」の韓国語読音。仏のすぐ下の境地。修行の終わりに達した者。守護神。



※永遠の命
▲東アジア系の大乘仏教=自分だけではなく衆生の救済が目的
▲東南アジア系の小乘仏教=苦しい遂行過程を経て人間を越えた仏の境地に到達するのが目的
  - 作中で浮き彫りにされているのは小乘仏教の教義。キム・ジェソクは本当にその境地に到達し、一度仏になった。



※鹿野苑
▲仏教の伝承において、釈迦牟尼が悟りを得て仏になった場所
▲仏教と関連のある集会場所であることを暗示
(or キム・ジェソク: オレも釈迦牟尼のように仏になる者だ。)
▲鹿=不老長寿を象徴する動物。ところが、キム・ジェソクは初登場から死んでいく鹿を見ながら登場→キム・ジェソクの永遠な生は成り立たないという伏線...



※象
▲仏教における象=徳が高く高潔な存在。
「心を修めるには毎日象の目を眺めながら自問しなさい」
▲「なんでお前は象の目が怖くないか?(オレは怖いのに...)」=すでに心が堕落した
▲象を殺す=仏道から抜け出した
▲「ただ、寒そうに見える...」=少女たちを殺した良心の呵責。真実が混同して悪寒を感じる状態。ナハンは殺人者が、まだ心だけは正義感の中である



※蛇
▲キリスト教ではサタンの化身
▲しかし、民俗信仰では多産と豊穣の象徴
▲仏教では物事を二分法に分けないので、蛇を悪と評価はしない

①時には悪業が深い動物と描写=四天王の足下の蛇/「キム・ジェソクは龍から蛇になった」
②時には修行者の守護神、友達のような存在=釈迦牟尼の修行中に蛇が守ってくれた逸話のために、蛇は仏教で仏の守護神として崇拝されたりする/皮を脱ぎながら新しい存在になる。
- 視聴者たちは、映画の前半に巫女の足を噛む蛇を見て、反射的に悪魔的存在を思い浮かべるが、他の宗教の観点から見れば、全く別のシーンになる逆転(蛇が守っている修行者=ブッダ)
↑この映画の中で最もトリッキーな部分の一つですね


※6本指
▲数字6はその約數の合計がそのものになる(1 + 2 + 3 = 6)、すべての数字の中心であり、仏教で「完成」、「完結」、「永遠」の象徴
▲6本指=できあがった存在で輪廻せず永遠の存在となった=仏の境地にたどり着いた
(偶然にも、下で説明する仏教の緣起說も12項(6+6)で構成されている)



※キム・ジェソクvsそれ
▲仏教の「緣起說」世界観。
- 海安和尚:「先輩、仏教では善悪の二分法はありません。それはキリスト教の考え方ですよ」
「仏教には悪がございません。執着と煩悩による欲望があるだけです」

=固定された善悪などなく、森羅万象がリアルタイムで相互に影響を与えながら変化する。
獣に生まれついた者でも悟りを得れば仏になるが、( ex:西遊記の孫悟空)悟りを得た者でも獣の行為をすると仏の座を失う。
=四天王を懐柔したのも同じ論理:「君たちは父を殺した獣だが、私の下で仏道に到達すると、仏になることができるのだ」


▲ ネチュンテンパ:「これがあれば、あれがあり。これが生まれたらあれが生まれる。これが滅になればあれも滅びる...」
①世の因縁と法則によって自然界には対称点と天敵が生まれる。
②「それ」は善とか悪ではなく、キム・ジェソクの運命の宿敵、天敵、対称点であるだけ
(似たようなモチーフに、Clampの「聖伝」という漫画では、インドラ(帝釈天)が、いつの日か天敵で生まれる存在(阿修羅)を警戒する場面もあります)

☆簡単に言えば、時計の長い針と短い針がテープに巻き付いて180度正反対に固定されている姿を想像すると良いと思います。
「そして12時が善、6時が悪なら、決まっている予言の日のその時間に、どっちが12に行って、どっちが6にあるかな?」

=灯火と呼ばれたキム・ジェソクは「本物」だったが、ネチュンテンパの予言を聞いた瞬間、永遠の命へ欲が生じて堕落して「偽物」となった。(12時から6時、竜から蛇に降格)

=グムファの家で生まれ蛇の扱いを受けた「それ」は、不吉な獣の形状に生まれたが、16年間修行者のようにやみの中で悲鳴を上げ、「蛇が最初に血を流すとき(初潮が始まった瞬間)」予言通り覚醒。堕落したキム・ジェソクの反対側にある善、仏となった。
地面を掘り返して発見したのはライター(=灯火)。
すぐに死んだ理由は天敵としての役割が終わったから(みみずが現われればそれを食う鷹も現われるが、みみずがいなくなると鷹も飢えて死ぬ)

=対称のキム・ジェソクが悪くなるほどそれはますます善に近くなる。
「それ」は黒い毛皮に覆われた身で生まれたが、成仏の瞬間、全身の毛が全て抜け、白くて純潔な存在になった。逆に白い服を着て登場したキム・ジェソクは散弾銃を持って、黒い毛皮服を着て家を出る...


▲釈迦牟尼の逸話でも、修行の最後に試験がありました
キリストを妨害したサタンのように「魔羅波旬」が現れ、色欲、縁、武力で成仏を妨げるが、釈迦牟尼はこれらをすべて一喝し、如来になった

キム・ジェソクにもこれは試験。
①ずっと仏道の中に身を置いて、来るべき運命に順応する。
波旬を撃退した釈迦牟尼のように天敵を感化できるかもしれないし、殺されても何か別の結果が生じるかもしれない

②いや...もっと可能性を高めよう。道を少し曲がって行く。
仏道の禁忌を犯しても私が天敵を「先に殺害」して、その後に衆生を救済する弥勒に再跳躍する

①と②で悩んでたキム・ジェソクはより安全に見える②を選択。
そして結果的にあまり良い選択ではなかった

殺人のために犯罪者少年たちを正義で懐柔したが、本人が正義から離れてしまったせいで相手を正義にして、それに感化された部下に殺害される結果が出てしまったのだから。



※「それ」がナハンに出会ってつくった手の動作の意味
▲知拳印(知恵の意味)→施無畏印(目を輝かす)→降魔觸地印(悪魔を屈服させる)
=「知恵を得て、目を開けて、本当の悪を滅ぼせ」
→ナハン:「(蛇とか惡だと思ったが...)誰だ、お前は!」
▲「私は君たちが血流すとき、一緒に泣いてくれている者だ」
巫女が言った悪魔の奇声は、実には死んでいく衆生(少女たち)を憐憫する弥勒の哭声ではないだろうか...
▲ナハンが歌に苦しんだ理由:10年間、自分が苦痛を受ける度に夢で助けてくれた存在が「それ」という事実を悟り、混乱されたこと



※「それ」が妹の足を噛みながら生まれた理由:
▲妹を不自由な体に作って家の中でのみ行動させ、家族をよく引越しさせながら鹿野苑のターゲットから遠ざかるようにするため。
▲ナハンが侵入したとき、悪魔のように鳥を動かして窓を壊すが、実は妹を守るためのもの。
▲兄弟の足首を握って(かみちぎって)生まれた:聖書のヤコブとエサウの逸話がモチーフ。
▲母は産後一週間後に亡くなった:釈迦牟尼のモチーフ。



※「オレの親友が南アフリカで...」
▲この作品の前にはプリクォルのウェブトゥーン0話があり、パク牧師が言った「オレの親友が南アフリカで...」は、実は本人の話。
▲元は、敬虔なキリスト教の牧師だったが、妻と娘をイスラムに殺され厭世的に変わり、宗教を利用して金を稼ぐ「偽物」たちを追い回し始めた。
▲しかし、心の中には「本物があるとしたら会いたい。この不合理な世の中について神に問い詰めてみたい」という願いがある
▲結局、パク牧師は「それ」の降臨を目撃できずに通り過ぎます。パク牧師はこれまで「ニセを追いかける人」だっだから
▲「神よどこにいらっしゃいますか...」=パク牧師は神を渇望する衆生を代弁する主人公。
▲しかし、監督は一つの希望も隠喩として提示。
「神が現身する瞬間を逃してしまったパク牧師のように、私たちも神はどこかにいらっしゃるのだが、まだ会っていないだけかもしれない」ってこと。



※メタファー。服を脱いで与える行為
=慈悲と布施→成仏。何か格上げされた存在になる

①ニセキム・ジェソク→少年たちに自分の服を脱いで与えた
=死刑囚から四天王を自称(しかし、これは偽のパフォーマンス...)

②グムファ→「それ」を農薬で毒殺して逃げて自由を得ようとしたが、心を入れ替えて、農薬容器を蹴飛ばしてセーターを脱いで渡した。
=十数年の苦行を終え、獣から仏へ。

③パク牧師→死にかけているナハンに自分のコートを覆ってくれた
=広目天を自称して幾多の罪を犯したナハンが最後の瞬間、悪に堕落した主人を殺し、「悪を消して善を行う悪神」、本物の四天王のようになったというアイロニー。



この映画はかなり脚本が良い映画です
後半で時間不足で説明が速くなってしまった感じはあるが(笑)
単純なホラー映画というよりは、「ダ・ヴィンチ・コード」系列の、オーカルトを追いかける面白さがある映画だと言えますね。

コクソンと同様の雰囲気と言う方もいますが、実際には正反対
- サバハ:良い脚本。起承転結、複線やトリックが完璧に近い「面白い話」。観客に最大限親切に説明。しかし、時間に追われて、少し演出が不足
  - コクソン:わざとシーンを入り混ぜて誘惑する。親切ではないが演出がすごい...

個人的にはどちらもかなり面白かった。
クェビン

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