まぬままおま

家にはいたけれどのまぬままおまのレビュー・感想・評価

家にはいたけれど(2019年製作の映画)
4.3
アンゲレ・シャーネレク監督、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)受賞作品。

「ゴダールやブレッソンを想起させる省略の多い映像とミニマルな物語手法を特徴とする」(☆1)とあり、期待してみたが凄い。こんな作品みたことない。構図が周到に計算されてて建築的だし、静謐な筆致は不穏な様を呈する。冬の暖房をつけていないけれど日差しだけが当たっている部屋に11時頃いるような。
確かにゴダールとブレッソンを想起させる。『ハムレット』(!)の劇中劇を導入し虚実を混交させることは『パッション』を思い浮かべたし、手のショットや真実の現れはブレッソンだ。

本作は虚実を混交させて真実を現した物語だと私はみた。ファーストシーンでは、オオカミ犬がうさぎを追いかけて捕食することが捉えられている。それは監督の意図が介在されない自然のことのように思えるが、それをカメラに収めた以上作為はあるし、何より犬が食べる姿を映すショットは構図が人為的で美しすぎる。後の人間たちの「劇」とは全く関わりがないから何のシーンなの?と思ったが、虚構と事実の対立項を揺るがす象徴的なシーンと捉えれば納得いく。さらに言えば、オオカミ犬はうさぎを捕捉し、殺して食べるのだが、人間は捕捉し合って、親密さを獲得する。その生の営みを提示しているとも思える。

「捕捉」の描写は多々ある。母は怪しいじいさんから自転車を購入するのだが、案の定すぐに壊れて、時間を拘束される。映画監督とは偶然出会って、彼の自転車の足を止めて、映画についての口論に発展する。その口論で虚実についてが語られ、それが本作のテーマでありシャーネレクが語りたいことだと思うのだが、このように大事なシーンでは「捕捉」が描かれている。
さらに本作の最も重要なテーマである母と子の関係についてもそうだ。ファーストシーンの次では母が子を捜し見つけて足にしがみつく動作が確認できる。娘が台所を無断で使用し、料理をつくったことでプライドを傷つけられたと母が癇癪を起こす時は、子どもたちが母に寄り添おうとする。それで落ち着きを取り戻すが、子が度を過ぎた遊びをしてグラスを割った時は、捕捉ではなく家を追い出す。けれど後に、娘とはプールサイドで抱擁する。

彼らが捕捉し合うとき、それは愛したり気にかけたりして親密さが現れる瞬間ではある。しかしその瞬間はすぐに消えて、口論や不和に発展してしまう。だから彼らが零度の距離で抱き締め、捕捉し体温に触れあっても「冷たい」。

運動の停止≒捕捉で現れる真実はとても残酷だと思う。確かに母の関係は上手くいかない。おじさんとも映画監督とも子どもたちとも。そして恋人とも。彼女がベットで彼の顔を撫でても、彼はすり抜けて家を出て行ってしまうのだから。

けれどその真実の現れを正しく受け止めた孤独の果てで「新たな諸関係を取り結ぶこと」ができるはずだ。それを親密さと呼ぶことができるなら…

物語は再び動物の世界へ。私たちは親密さを捕捉しようとする真実の生へと投げ込まれている。

(☆1)「下高井戸シネマ アンゲレ・シャーネレク特集ページ」(http://www.shimotakaidocinema.com/schedule/tokusyu/toku-3.html)