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システム・クラッシャー/システム・クラッシャー 家に帰りたいのarchのレビュー・感想・評価

5.0
ミヒャは途中でベニーの担当を離れようとする。「自分でも驚く程に距離が取れない」と。

その感覚は、まさに観客とベニーの"距離"そのものである。
観客の共感を跳ね除けるベニー。ベニーの味方に着くことを容易にはさせない姿勢。社会の枠組みや大人の論理に締め付けられ、"叫び声"を上げる鮮烈な瞬間と、合間に垣間見える"天使"のように可愛らしい瞬間が交互に描かれ、我々はベニーとの適切な距離を見失うのだ。

本作では彼女の性格について明確な病名が与えられる訳でもなく、この法制度が悪辣だとか、こいつが諸悪の根源だという描き方は避けている。
この映画はジャッジしようとしない。"システムクラッシャー"と呼ばれる彼女の生き様をフラットに描こうとするのだ。

ただ同時に彼女を苦しめているのは"大人"なのだということは明確なのは間違いない。子供を産んだのは大人で、生まれる社会を作ったのは大人なのだから。印象的なのは、ママの元に戻れるとなった矢先に、その時期を延期して話し合いの場から逃げ出す場面。ベニーの怒りや自傷行為が大人の振る舞いから来ているということが、どの場面よりも明確に表れていて、その後の母親の完全な責任放棄とうずくまるバファネ、そして彼女を慰めるベニーの様子に胸が締め付けられる。

私が彼女との距離感や感情の置き方を迷わされたのは、彼女の映画における被写体として適性の高さもあると思う。彼女の疾走や爆発的エモーション、自由や感情を体現して、周りの目を気にせず踊り出してしまう性格。そして画面映えするピンク。それら全てが映画を活気づけ、映画を豊かにする存在感を示す。例えばファストフード店で机に立ちノリノリで体を揺らす姿なんかはミュージカルなら違和感ないし、映画によってはアリな場面にも思える。また彼女はいつも走るのだ。それを必死に食らいついて追いかけるカメラ、彼女のアバンギャルドな存在感と作品のモンタージュや彼女に味方する劇伴など、その適性が為せる映画的な面白さに身を委ねたくなる。だが、その行動の全ては彼女の首を絞めることになるわけで…。それを享受していいものなのか。その逡巡もまた、ベニー、というかこの映画との距離感への迷いなのだ。




平然と社会と彼女の対立構造が出来上がってしまう。福祉システムに欠陥があるだけで、システムから弾き出されてしまっただけなのに、クラッシャー扱いされる。そんな彼女に同情を覚える。しかしその次の瞬間にはジャスティンの頭を氷上に叩きつけるベニーを目撃する。あぁベニーのピンクは、血の赤色に似ているなと呆然と思ったを覚えている。

この同情の心はどこに置けばいいのだろうか。彼女の自責にはしたくない心情と自身をコントロール出来ない彼女への諦めや恐怖が同時に存在してしまう。
この映画がジャッジしないからこそ、彼女の顛末を描かないからこそ、この映画は遠くに飛翔していってしまう。それを眺めてるだけしかない我々、それでいいのかと思わずにはいられなかった。

ミヒャとベニー、極寒の草原で離れた距離で対面する。彼女を行かせてはならないと思いながらも、言ってしまった方が楽なんだということを理解している。何度も何度もは我々はその"距離"でいいのかと自問させられる凄まじい体験だった。
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