いずぼぺ

クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代のいずぼぺのレビュー・感想・評価

3.2
19世紀末はウィーンが熱を帯びた時代。
まさに時代が大きく動く中で、数々の学者やアーティストを輩出した。
その中でもクリムトとシーレにフォーカスした本作。
ふたりともそれまでの画家の技法や表現、視点とは大きく異なる。その背景をウィーンという都市の変化とともに読み解いていく。
クリムトもシーレも官能的で当時としては大胆過ぎる画風だ。シーレはクリムトを師と仰いだようだが、その絵は対極といってよい。クリムトの華やかで蠱惑的、動きのない静止したポーズからも溢れるエロスの絵に対して、シーレの作品からは深い孤独と不安、それを解消するためなのか暴力的なまでの残酷さでモデルと自分の心の揺れを描きとった絵。シーレは人間の内側に隠されたもの、人間を構成する全てのものを描こうとしたのか長くポルノ画家として扱われていたようだ。彼にとってヌードデッサンは人間のあるがままの美しさの探求ではなく、皮膚や骨に纏わり付く本質的な醜さを泣きながら描いているようにみえる。あたかも描くことでその醜さが清められるのではとでもいうように。片やクリムトの描き出すヌードは光が溢れ、崇めるように官能的である。
時は折しもスペイン風邪大流行の時代。そうでなくても、現代よりは死は身近であったはず。前時代、不道徳とされた性への関心と表現は世紀末の不安と文化の変容により表舞台へと現れた。それは性におけるジェンダーすら変化をさせた。女性は男性の性的欲求を満たすための存在だけではなく、男性と同様に性的欲求を満たすべく行動する性なのである、と。
性とは隠すべきものではなく、人間の本質的なものであり生の象徴なのではないだろうか。生の実感、生の継承として。
だからこそ、この19世紀末にクリムトとシーレは輝けるエロスと心の暗黒が生み出してしまったエロスを私たちに遺したのかもしれない。
171-61