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パラサイト 半地下の家族のkentaのネタバレレビュー・内容・結末

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

終始緊張感がある。映像のどのような要素がその緊張感を作り出しているかまでは観ることができなかったのだが。音楽はただの背景となるのではなく、映像と絡まりながら、緩急を作り出していたように感じる。それは緊張感を作る一つの仕掛けかもしれない。血に染まった手が芝生を背景に映される絵、その鮮やかさが印象的だった。

物語は社会の縮図として捉えることができる故に過激であった。社会のなにを描いていると言えるかといえば、やはり格差だ。
富を持つものに寄生してしかいくことのできない社会。しかし馬鹿な金持ちから騙しとっているという意識で寄生している家族はまだ良い方かもしれないと思わされる。なぜなら、ブルジョワをあたかも恵をくれる神かのように「リスペクト」する、より下の人々がいるからだ。そのようなお恵みに感謝しながら隷属的に生きる姿は、「これは果たして現代か」と疑問を思わずにいられない。そこには平等や人権という近代社会が描いた理想、人間の尊厳は見られない。

家族より下の夫婦は重要な存在だ。まずは、完全な地下に住んでいるということにより、貧困の中にもさらなる貧困があることを示す点において。また、彼らが家族に対して「同じような境遇で仲間ではないか」と慈悲を願ったのに対して、それを家族がはねつけた場面で重要な役割であった。それが示すのは、少ないパイを争うことによる道徳の荒廃。別の場面ではお父さんは、首になった運転手を案じたりするのだが、娘は家族のことだけ考えてという。同じような境遇のものを蹴落とさないと生きていけない状況は物質のみならず精神さえも貧しくする。

様々な人、事象が格差を表す鍵となっていたように感じられる。まず一つは地下に住む男。その存在は、そこに閉じ込められてることによって社会の安寧が保たれているスケープゴートだ。彼が不幸を地下で一挙に引き受け、それを誰も知らないでいることによって人々は幸せでいられる。そしてそれが解き放たれときは不幸と混沌が起こる。次に雨も象徴的であった。金持ちのお母さんは、雨が降ってよかったと呑気に言っている一方、底辺の人々は雨と下水にまみれている。呑気さも特権なのかもしれない。恋に落ちた2人も、娘の方は恋に夢中だが、男の方は自分はふさわしいのだろうかと案じている。臭いも非常に印象深い。それはおそらく決して消えずついてまわるもの、底辺に生まれた身分の比喩と読み解くことはできないだろうか。どれだけ取り繕おうが、臭い、つまり貧困に生まれたものの身分は変わらない。ここでもまた、生まれに左右されず平等であるという近代社会の理念とは反対の、むしろ退行した状況が描かれている。身分制にたいする不条理がお父さんに人を殺させたのだ。首になった運転手を案じる心のある彼は、ただ臭いと言われただけで人を殺めないはずだ。僕は現代のレ・ミゼラブルのように感じてしまった。レミゼラブルでてくる、騙しながら生きていくしかない家族、ずっとついて回る身分など。

時々挟まれる英語も意味があるように感じた。それは、韓国という国の構造に由来すると思われる。そしてそれは日本とも通ずる。なぜなら戦後それら二つの国にとってはアメリカが文化的、政治的なものの最上に位置するようになったからだ。その国の言葉を話し、文化を身につけること、それは権力へ近づくことである。また、アメリカとは憧れる対象である。そのようなアメリカを基に作られている韓国の権力構造や、それに対する憧れがイリノイ工科大学という学歴信仰、英語学習、お金持ちママのアメリカ製品信仰、インディアンごっこをする子供、韓国に無駄に挟まれる英語によって表されているのではないだろうか。(そういう意味では、家族はお金持ちのもつアメリカ信仰を嘲笑うかのように騙した)そして、そのようなアメリカを最上に据えられている構造は決して社会の格差と切り離せないだろう。

韓国の人々はどのようにみたのだろうか。幼い頃からの競争、学歴社会、卒業しても働き口はない一方、富を握る財閥。日本の人々よりも、よほどリアリティをもち現実と重ねて合わせて見たのではないだろうか。またこれは、ジョーカーにも重なるテーマではあるが、様々な文化圏で格差を描いた映画が作られ、また注目されていることは偶然ではないだろう。これらをみるにあたって、狂気の物語として消費するのではない仕方でみること、それが我々に突きつけられているのではないかとも思う。
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