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生きるのmamipiguのネタバレレビュー・内容・結末

生きる(1952年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

物凄いものをみた。。。
『映画をみたーーーー!!!!』っと感じた。
カメラワークの意味や、音の使い方。
絶望してる街中のシーン。無音からのトラックが通過した瞬間にけたたましい道路の騒音が聞こえるあのシーン。
あまりの絶望に、音がこの世から消えてしまったという演出としてサイコーだった。

『生きる』ということ『死ぬ』ということ。
今までの30年間死んでいて、最後の1年で生きる!
黒澤明監督作品の肝である、目の芝居。
どん底や、狼狽や、楽しみや、覚悟や、ラストは子供の純粋無垢な瞳。
あんなにもセリフ少なく、目で表現しきっているの、凄すぎる。。。

喫茶店のシーン。
「ただ働いて、食べて、寝てるだけよ!それだけよ!」と言い切る部下の女子社員。
渡辺さんにとっては、彼女は生き生きと生きているように見えるが、彼女にとっては周りの喫茶店にいる人たちの方がキラキラ輝いて生きているように見える。
見え方はそれぞれの尺度で本当に変わる。
誕生日をお祝いされる人が階段を上がる対比で、死を待つ渡辺さんは階段を降りていく。
そして生まれ変わる。
なんじゃこりゃ!!!!
もう、なんか唸るわ!!!!!

そして一番感じたのが、親のことをわかっているというのは大間違いだなということ。
自分も自分の両親の一面『親』という部分でしか見ていない。
家族以外の人と接する部分や、職場やその他の居場所での親の顔ってみることができない。
それなのに親だからという理由だけで、両親のことは全てをわかっているという驕りは気をつけようと思った。
あんなにも息子のことを愛して今まで生きてきても、胃がんのことを最後まで何も言わないという決断を下したのは、前半部分の歩み寄れなさで納得できたから。

お通夜がお通夜らしく、故人のことをずーーっと話ししているの、いいなと思った。
…でも簡単に世の中の仕組みが変わるはずもなく。。
確実に人が亡くなることで影響を受けるものはあるけれど、そのラストの皮肉さというか、そのまま綺麗にかたがつくとならなかったのが現実だった。
なんだか、とにかく痺れたわ。。。
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