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劇場のpicaruのレビュー・感想・評価

劇場(2020年製作の映画)
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『劇場』

ずっと公開を楽しみに待っていた映画に、こんな形で裏切られるとは。

“夢を叶えることが、君を幸せにすることだと思ってた”

演劇に取り憑かれた主人公・永田。
劇団「おろか」で脚本と演出を担当する。
そして、彼を支える彼女・沙希。
夢を抱いて上京し、下北沢のひと部屋で暮らしている。

映画鑑賞前、タイトルに惹かれて原作本を読んだ。
私だ、と思った。
永田は私だ、と思った。
考え方も過ごしてきた時間も似ていて、読みながら息苦しかった。
これはかつての自分に捧げられた物語だ。
自意識過剰かと恥じつつ、こういう感じ方さえ永田と重なり、自嘲的になる。
観なければ。
これを観ずに死ぬことはできない。
確かな切迫感があった。

こんなタイトルなのだから、劇場で観たい。観るべきだ。それこそ作品に対する敬意だ。
と思ったが、上映規模縮小により叶わなかった。
すでに公開延期されていたこともあり、いち早く観たかったので、配信で観ることにした。
ちょうど作品の舞台となる沙希の部屋のようなアパートの一室で、パソコンの小さな画面で観たことは、かえってよかったのかもしれない。

永田が観たかった。
永田を観ながら苦しみたかった。
だれか一人がくれた「才能」という言葉だけを頼りに、夢を追いかけ、現実に項垂れ、諦めることもできず、長いのか短いのかわからない時間だけが過ぎていく日々を共に生きながら。

しかし、私は不意打ちを食らう。
彼女だ。沙希ちゃんだ。
そっくりだったのだ。
原作を読んでいるときにイメージしていたキャラクターと。

あれ、この言い方……
あれ、この仕草……
最初は松岡茉優さん、ぴったりのキャスティングだなぁ、と嬉しくなっただけだった。
安心して永田のエピソードに集中することができるから。

なのに、途中から永田が目に入らなくなってくる。
沙希ちゃんの再現がすごすぎたのだ。
気付いたら小刻みに震えていた。
演技に衝撃を受けているのか、あるいはエアコンが効きすぎているだけなのか。
途中でエアコンを止めたが、変化はなかった。
私は松岡茉優さんの演技に魅せられていたのだ。
気付いたら涙がこぼれ、震えは収まるどころか加速した。
原作本を読んでいたおかげで、いや、原作本を読んでいたせいで、彼女の演技がいかに素晴らしいか、ひしひしと感じ、もうそれ以外はどうでもよくなってしまった。
どうでもいい。などという投げやりで意地の悪い言い方を平気でしてしまえるほど、素晴らしかったのだ。
この映画がどんなラストを迎えようと、松岡茉優さんの代表作となる。
中盤で確信していた。
こんな感覚はいつぶりだろうか。
邦画でひとりの演技に夢中になったのはいつぶりだろうか。

原作に忠実であること。
それはひとつの評価軸として存在する。
原作内の登場人物を100%とするならば、役者はできるだけ100に近付けようと試みる。
余裕だった。
松岡茉優さんは100%など余裕で辿り着き、(たったいくつかのシーン、言葉、仕草で沙希ちゃんに完全になりきってしまったのだから間違いなく本物だが)、さらに駆け抜けていこうとする。
私のほうはというと、だんだん怖くなってくる。
ここまでイメージ通りの人物が目の前に現れると、逆に顔が強ばってくる。

原作本を読み込むだとか、丁寧な演出だとか、そういったことで達成できることには限りがある。
松岡茉優さんは沙希ちゃんを育てようとしたのではないか。
ふっと、そんな考えが頭に浮かぶ。
登場人物は原作で完成されているものだと思い込んでいた。
だけど、原作本である頂点に達した人物を、姿形は変えぬまま映画で深めることも可能なのかもしれない。

今、すごいものを目にしている。
それは喜びであり、脅えであった。
とんでもない女優さんが生まれたものだ。
終盤に差し掛かると、もはや、沙希ちゃんが何か言葉を発するたびに、少しでも動いたりするたびに、涙がこぼれ落ちてくる。
わかったよ。もう、わかったから。喋らないでくれ。動かないでくれ。
もちろん私の心の叫びなど意に介さず、物語は進行していく。
残酷なほど、沙希ちゃんは輝いている。

望んだ永田とかつての自分を見つめる時間は手に入らず、ひとりの女優さんの演技に釘付けになった。
でも、そんな鑑賞の仕方こそ永田らしいな、一度演劇に染まった者らしいな、と思ったらおかしかった。
最後の最後、私も泣きながら笑った。
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