ぼっちザうぉっちゃー

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバーのぼっちザうぉっちゃーのネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

“チャドウィック・ボーズマンに捧ぐ” と “ブラックパンサーは帰ってくる”
これがこの映画の全てであったように思う。

映画開始から終わりまで、正直心の底から楽しめた瞬間は一度も無かった。
冒頭からいきなり降りかかる最大の喪失が、必然的に喚起される現実と共鳴し作品の枠を超えて観客の心を縛り付ける。いつものロゴにもファンファーレは無く、ただ静けさと暗闇が表示されるのみ。
MCUでも随一の鬱オープニングだったんじゃなかろうか。

とはいえ腐ってもマーベル映画。SFアクションとしての見応えも確かに健在であった。
アクションに関しては、個人的に長物アクションが好きなため、前作に増してメインで活躍したドーラ・ミラージュの戦闘スタイルとの相性が良くてかなり満足度が高かった。
そしてオコエ隊長のファッションセンスとプロポーションに戦慄。どこぞのツンデレキャラのパイスーでしか見たことないくらいにぴちぴちタイトな赤インナーがリアルで似合うってどうゆうこと。
また、緩急たっぷりに見せるスローモーションや水爆弾の爽やかだが質量の伴う派手さなど見応え十分なカットも存分にあった。

そして音楽もまた前作に引き続き素晴らしい。オシャレで心地よいグルーヴ感を生み出す楽曲や一部ダイジェティックな使われ方もする民族的、大陸的な力強さと広がりを感じるサウンドなどが、『ブラックパンサー』ならではの体験を耳からも添えてくれる。
そしてまた逆説的に今作において印象に残ったのは、そういった音楽の彩りを一切削いだ無音の時間であった。オープニングのロゴや回想、対話シーンにおいて雰囲気を作っていたのは無音もしくは河や風の音で、その各場面ごとに研ぎ澄まされたような気韻を感じた。

そしてやはり今作では特にスケールの点において今までと違うベクトルに広がりを見せたのが面白かった。それこそ未知の海底王国タロカン。その様子がとても興味深かった。
ワカンダにおける開発・整備された都市と民族建築の融合や、『アクアマン』での同じく水中帝国アトランティスにおける深海のユートピア的な煌めき、そのどちらとも違っていて、深海の穏やかな静けさの中に地上の遺跡がそのまま沈んでいるような景色で、海の中なのに不思議とジャングルのような森厳さを感じた。そう考えるとどこかネイモアのルーツを具現化したもののようにも思えてくる。
こういった風景にも影響を与えるヴィブラニウムが、ワカンダにおいては「地下」に眠る資源、タロカンにおいては深い闇を照らす「太陽」として捉えられているというのも象徴的で、その在り方も今作においてかなり重要であると思う。

前作のラストにおいて全世界に自国の価値(ヴィブラニウム)を示し、社会に参画し始めた先進国であるワカンダ。そして今作から登場する存在すら知られていなかった未知の王国タロカン。本作の軸になる二国の衝突は、どうしようもなく文明人と未開人のような対立構造が感じられ、双方の「国」としての矜持がぶつかる生々しいもの。それは全編気乗りしないはずだ、極めて原始的なただの戦争なのだから。
それでも最後までフィーチャーされ続けるのはあくまでその中心に置かれたシュリとネイモア。二人の関係は、シュリの未熟とネイモアの剛毅によってどこまでも平行線をたどる。が、然して結局結末の部分で示されたのは文明・テクノロジーの勝利。正直この流れに関しては、個人的にダブルルーツやその丁度いい恰幅、穏やかさの裏の愚直なまでの責任感などに惹かれてネイモア側に肩入れしていた身として多少の鬱屈は隠せない。

しかし起こってしまったことは仕方がなく、より大事なのはその結果ワカンダがさらに背負うことになった責任にあると思う。特に、ネイモアに貰った腕飾りやキルモンガーの遺志など、ある種一つの国家として世界の中に立つということはそういった過去の想い、歴史の遺烈や遺産を利用し、踏み台にし、より強かに生きながらえることである、というとても残酷で業の深い、赤裸々な実相が描かれたのがすごく良かった。

MCUの中で絶えず問われ続けるWho are you?それは今作においてシュリに投げかけられる。王女か復讐者か、それとも、、、。その答えに醜く揺れた血生臭い国家抗争の終わり、焚火の前で大粒の涙を流すシュリ。それは紛れもなく、ただただ一人の兄を亡くした“妹”の姿だった。
しかし泣いてばかりもいられない。なんのためのこの儀式(本作)か。守るべき希望(ティ・チャラ)はまだまだある。
私も一緒に胸の中で、悲しみだけの心をそっと、火に焼べた。


「ワカンダフォーエバー」
それはもはや架空の小国団結のための雄叫びにとどまらない。
それは主役を亡くし、先の展望も、描きたかったテーマも、その心身までもバラバラに打ち崩されながら、それでもまた一から、負けてなるものか、終わらせてなるものかと、必死に制作に打ち込んだ作り手の想いだ。
それはスクリーンに、一人の俳優に、確かに夢を見た観客の鼓舞する声だ。
それは遺された者ではなく、今を生きこれからを生きる者たちの強い意志だ。

チャドウィック・ボーズマンが遺したティ・チャラは、ブラックパンサーは、この配信全盛期の時代その有無に関わらず、決して消えないし、失われることなんてない。それこそ「永遠」だ。

そして心配せずとも必ず「続き」は観られる。胸の前で腕を交差させ、声を張り上げる者がいる限り。

だから恐れることなんてない。
信じよう。そして何度だって言おう。力強く。

ブラックパンサーは、帰ってくる。