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ふたりのotomisanのレビュー・感想・評価

ふたり(1972年製作の映画)
4.1
 全編これ男女二人の行き掛かり、秘境マラケシュからパリ、NYCまで、浪漫そのものじゃないか。
 なにより女は高名なカバーガール。亭主気取りの写真家を振って帰国の途上とくれば、どんな過去のある男を宛がうべきか。
 しかしこの時代、1972-73年は、相手に事欠くじゃあるまいが微妙な奴、ベトナム戦争の脱走兵、とりわけ敵前逃亡兵を以って「今」を特徴付けよ、と要求するらしい。

 遡って1968年といえばベトナムでは年初のテト攻勢で知られる解放戦線側の大作戦を始め激戦、結果双方大損害の年。米国では政府も市民も戦争への受け止めの転換が促された時期でもある。
 こんな年に応召した微妙な奴、エバンが18歳だったとすれば、4年後には22歳。2年の軍務を終えたらどうなっているだろう。アーリントン墓地に埋まっているのから、無傷であれ、負傷、PTSDを受けてるのであれ帰還兵の優遇を得て大学に通ってるか医者に通ってるか勤めに出てるか、それともだ。
 しかし、軍務を拒否した者、とりわけ敵前逃亡者はどんな事情があったにせよ風当たりが強い。しかも、地下組織を通じタイを経てソ連で歓待され、反米宣伝に加担、これで刑期を積み増してのち中立国へ、さらに情勢の変化から逃げるように隠れ里マラケシュへ。
 マラケシュの迷路の奥で皿洗いの下積みで終わる事には嫌気もさすだろう。逃げ出した戦争も間もなく終わって風当たりが弱まれば推定、刑期5年でまた娑婆に戻れるだろうし。

 こんな男を迎える女、ディアドラは戦争も反戦も仕事の飾りに過ぎない。こうした行きずり、奇妙にも不自由を求めに行く男の窶れ顔を間近にして初めて旅愁でも覚えるのだろうか。
 遠い異郷から米越和平のカギを預かる街パリへ。ディアドラの業務上の日々がいかにも馬鹿げて映るこの町で、その表情の退屈さにいまさら気付くかのようなこの女、自分は蒸発した離職炭鉱夫の娘で碌に物を知らぬまま世界の頂点にこうしていてもなにがこころに満ちて来たか?なぜ寂れたヤマ育ちの自分は縁も所縁もなかったNYCに向かうのかを問うているが、そこには今、息子がいて母親がいて、いわば自分のすべてがあるのだろうが、自分はそれでも何を欠いていていままで探し歩いて来たのだろう。
 また、エバンは3年の流謫の末、こんな異界の女に感じるのは違和感ばかりだろう。ところが、近づけず離れも出来ずで迎えたパリでのふたりの夜がともに何を変えてしまうのか。

 彼らがそのままどこかに姿をくらますのかと思えば、なにに促されるのだろう不名誉の烙印を押されに所定の日時に役所に出向き拘束されるという。
 果たして刑期5年で済むのか、合衆国はどんな罪状を掘り出してくれるのか。良心的兵役拒否ではない、PTSD受傷でもないエバンが法廷でなにを語れるのか。下獄は間違いなしなエバンに見舞われる災厄の先でディアドラはどんな遠くに行ってしまっているだろう。
 ついに、赦免に向けて奔走してくれた肉親にも会うことなく過ごした最後の娑婆でディアドラとその家族と会って、自分が逃してしまった運命の幻を思ったに違いない。
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