ナガエ

ファナティック ハリウッドの狂愛者のナガエのレビュー・感想・評価

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なかなかヤベェ映画だったな。
随所に今っぽさがありつつ、主人公が「普通」という枠組みからあまりにも外れまくってるから、人物と背景の絵のテイストが合ってないアニメみたいな、凄い違和感のまま物語が進んでいくところが、なんか凄かった。


昔から、昔々からずっと思っていることがある。それは、「熱狂できる何かがある人は羨ましいなぁ」ということだ。

これさえあれば生きられるとか、これのために生きているとか言えるものが僕にはない。というか、意識的にそういうものを持たないようにしてきた、という方が正確だ。

「これのために生きている」というものを持ってしまうことは、僕には怖い。何故なら、それが無くなったらどうすればいいんだろう?と考えてしまうからだ。自分の中で、好きであればあるほど、途中でブレーキが利いてくる。これ以上進むとやべぇぞ、と。そんな風にして僕はずっと、自分の”好き”を適度に押し留める人生を送ってきた。

まあ、生き方としてそう間違ったとは思っていない。やっぱり今でも僕は、何か凄く好きなものがあった時、「それが無くなったらどうすればいいんだろう」という不安の方が強くなる気がするし、であれば、何かを好きになればなるほど同時に不安に侵食されるということだ。それはしんどい。「ほど良く好きだわー」ぐらいに留めておくぐらいの方が、僕の精神衛生上、穏やかでいられる。

でもやっぱり時々、何かに熱中したり、何かを熱心に語ったりしている人を見ると、羨ましく感じる。そういう熱情は、僕は持てないなぁ、と。そういう熱情の中に、不安感を抱かずに浸ることが出来れば、なんかもっと楽しく生きられるんだろうなぁ、と思う。

さて、そういう、不安感に侵食されたくないという感覚とは別に、あまり大きくはないのだけど僕の中には別の感覚もある。それこそ、この映画のテーマである、ファンとストーカーの差についてだ。

自分が「ファン」の域を超えて「ストーカー」になっていないかどうか、どうやって確認すればいいんだろう?これは結構難しい問題だと思う。

本書の主人公であるムースは、「僕はストーカーじゃない!」と盛大に叫ぶ。彼は、彼自身の自覚の中では、ストーカー行為を働いているつもりはない。

ニュースなどでストーカーで逮捕された話をやっていたり、ノンフィクションなどでストーカーに関係するような話を読んだりするが、やはりどの場合も概ね、ストーカー本人にはストーカーである自覚がないのだ。

これは怖いぞ、と思う。

ストーカーというものが正式にどのように定義されているのかは知らないが、一般的に認識されている理解としては、「相手を不愉快にしたらそれはストーカーだ」ということになるだろう。つまり、行為者の行為によってではなく、行為者の行為の受け手によって決まる、ということだ。

何かで読んだ話だけど、電車の中などで痴漢に遭ったと感じ振り向いて、そこにいるのが福山雅治だったら、彼を痴漢だとは判断しない、みたいな話がある。男からすると不合理な話だけど、まあ分からないではない。この映画の設定にしても、ムースとまったく同じ行為を、絶世の美女が行っていれば、行き着く先は全然違うものになるだろう。だから結局は、「自分の行為が相手にどう受け取られるかの想像力」が「ファン」と「ストーカー」を分けるのだろう。

こういう話は、かつては一部の著名人に限られていたが、SNS時代には誰もが関係しうる。「熱狂的な好き」という情熱は、瞬間的にならどんな個人にもやってきうるものだし、「熱狂的な好き」にさらされることで、アンチも集まりやすくなるだろう。「熱狂的な好き」をその本人に簡単に伝えられる世の中になったことで、「これだけ”好き”を伝えているのだから、何らかの対価があってしかるべきだ」という発想になる人もいるだろうし、また以前よりは、「相手と自分の二人だけの世界」という妄想を抱きやすい世の中でもあるだろう。

もちろん、大抵の人は踏みとどまる。自分の行為が、相手にとっての迷惑になることを積極的に望む「ファン」は多くないだろうからだ。しかし、ごく一部の「ファン」が、相手の迷惑を理解できず「ストーカー」に昇格していく。

この映画は、ストーカー側から描かれており、ストーカー自身の”狂った理屈”が肯定されているかのような世界観で物語が進んでいくことが、異様な狂気を生み出している点だと思う。

内容に入ろうと思います。
ハリウッド大通りで警官に扮するパフォーマンスをして日銭を稼いでいるムースは、熱狂的な映画オタクだ。中でも彼は、ハンター・ダンバーという人気俳優の大ファンだ。ムースの唯一の親友であるパパラッチのリアに頼んで、ダンバーが来るというプライベートパーティーに忍び込んだりするが、空振り。しかしある日、常連として立ち寄る店でダンバーのサイン会が行われると知り大興奮。意気揚々とサインをもらいにやってくるが、まさに彼のサインの番という時にトラブル発生、ムースはダンバーに冷たくあしらわれたまま、結局サインをもらえず終いだった。
落ち込んでいるとリアが、有名人の自宅を検索できるアプリの存在を教えてくれる。リアは、ストーカーになるから、アプリ上で写真を見るだけで楽しんでと忠告するが、そんな話はムースには届かない。彼は当然のようにダンバーの自宅を探し当て、ランニングから戻ってきたダンバーに直接手紙を渡そうとするが、当然「帰れ!」と言われてしまう。しかし、彼のサインを諦めきれないムースは、また別の日にダンバー邸へと忍び込み…。
というような話です。

いやー、やべぇ話でした。とにかくムースがイカれてて、しかしムースはリア以外の他人とほぼ関わらない生活をしているから、それもあってムースの異様さが他者との接触で浮き彫りになることがほとんどない。普通は、社会の中で生活していきながら、どういう行動が誰にどんな風に受け取られるのかを学びながら、自分の振る舞いを微調整しているものだと思うけど、ムースにはそういう調整機能が働く場がほとんどない。リアは、何故ムースとの友人関係を継続しているのかイマイチ分からないが(リアの視点からすれば、ムースというのは迷惑をかけてきっぱなしの厄介な存在だ)、ムースはリアの忠告は甘く考えているのか、友人だから甘えているのか、深刻に受け取らない。だから、ムースを止めるものは何もないのだ。

だから、ムースがメチャクチャ怖い。

はっきり言って、次の瞬間どういう行動を取るのかまったく予測が出来ない。「普通」という枠組みに入っている理屈すべてが、彼には当然のように通じないので、自身の行動が「ストーカー」だとまったく思っていないし、「ストーカー」だと言われるとキレるほどだ。なんというのか、「あぁ、世の中のストーカーと呼ばれる人たちも、こんな風に、自分の行動がマズイことだと理解できていないということなんだなぁ」としみじみ感じさせられるようだった。

それと同時に考えさせられたのは、ムースのような人間が一定数存在してしまうとして、そういう人につきまとわれる側は一体どう対処すればいいのか、ということだ。

正直、この映画におけるダンバーの対応はクズというか、それはストーカー相手でも許されないっしょ、という感じのものなので、ダンバーに対する同情感は湧かないのだけど、普通に考えればダンバーは不幸な被害者だ。純粋な被害者なので、対抗策があってほしいところだけど、正直難しいんだろうなぁ、という気はする。

やはり、社会的に失うものが無い者は怖いと思ってしまう。

悪事が発覚した場合、失うものが多い人の方が、抑制を利かせやすい。しかしムースは、金も仕事も地位も名声も友人もほとんど何もない。映画への情熱だけがある人間だ。そんな人間には、「◯◯を失うことになるから止めろ」という忠告は意味をなさない。

どうしたらムースを止められるんだろう?

被害の大小はともかくとして、現実的にこういう問題に直面している人はたくさんいるだろう。しかしそれは、世の中の大きな動きとも関係があるよなぁ、と思う。僕は「プチ教祖」と呼んでいるのだけど、自分のファンを獲得し、そのファンに何かを売ったり、そのファンの数を何かの力に変換して世の中を渡り歩いている人というのはたくさんいる。これは別にそういう生き方を批判しているとかではまったくない。時代の変化とテクノロジーの進化が、そういう生き方を可能にしたのだ。一番分かりやすいのはYouTuberだろうが、ごく一般的な人でも、「プチ教祖」のような生き方を目指せてしまう世の中なのだ。

そして、「プチ教祖」として生きるということは、「ファン」を多く獲得するということで、そうなればなるほど、「ファン」の一部は「ストーカー」になりうる。だからこれはもう、現代病みたいなものになりつつあるんだろうと思う。

しかし、病の存在ははっきり認識されていても、その対処法は明確になっていない。そういう現代性が、映画に詰め込まれていると感じた。
ナガエ

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