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Cowards Bend the Knee or The Blue Hands(原題)
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『Cowards Bend the Knee or The Blue Hands(原題)』に投稿された感想・評価

実験的なアート映画で定評のあるガイ・マディン監督のモダンサイレント映画です。監督自身の脳内歴史を10編の短い作品にして、一本の長編映画としたものです。

テーマは古代ギリシアの劇作家エウリピデスの悲劇『メディア』から「不貞」と「復讐」を引用しています。このテーマのモチーフとなっているのが「手」です。これに加えて「父親」と「母親」との関係性も描いています。

ストーリーはかなりヒドイです。彼女が堕胎している最中に、別の女に一目惚れして二人でいなくなってしまう。そして、その彼女は手術後死んでしまう。ヒドイ!!!😟😟😟まあ、ガイ・マディンという男の頭の中の話で、実際の行動とは違うので許してあげてください。「手」が欲望のモチーフで不貞を働く元凶となっているのですが、この「手」がいちいち女性から拒否されるのが笑える。おそらく、こちらは現実😂

ガイ・マディンは「父親」になることを拒否するが故に、彼女に堕胎させます。しかし、女性たちは自分の「父親」たちに強いつながりを感じています。それ故にガイ・マディンの「手」を拒否するんですね。

ただ、テーマとしては色々と理解できるものの、それほどの深みはないと感じました。やっぱりこの監督の特徴は強い作家性の映像なんですよ。その作家性は簡単に言えば「非常にモダンな手法を使ったノスタルジックな映像」です。カメラはスーパー8で、8ミリフィルムで撮影されました。予算は3万ドル。すごく安い。この予算でこの映像は流石に凄いです。

もともとはアートギャラリーでのインスタレーションとして作られたので、その目的は十分に達成していると思います。ただ、長編映画作品としてはちょっと物足りないとも思いました。ボクはそれほどアート映画が得意でないのでこの評価ですが、アート映画が好きな人にはたまらない作品だと思います。
[父親の重責から逃れた"臆病者"の末路、或いはガイ・マディン版『イレイザーヘッド』] 100点

医者が誰のものとも分からない精子を顕微鏡で覗くと、そこではホッケー選手が忙しなく動いていた。悪夢のような観客席のないホッケー場で選手たちが動き回っているのだ。そして、その中のスター選手が頭痛により途中退場する。名前はガイ・マディン、20代の青年だ。『The Saddest Music in the World』のプレプロダクション中にスパッと撮ったという自伝三部作の一編であり、最高傑作と推されることも多いマディンの長編七作目。サイレント映画サンプリング的な手法を踏襲しながらもショットやカメラワークは非常に現代的であり、痴情は平時通り世代を超えて縺れまる。似たような『Careful』や『Twilight of the Ice Nymphs』よりも説明が難しいくらい。ちなみに、マディンはホッケー大好きで、父親がホッケーチームのGMだったというのは本作品の設定と一致している。

本作品はガイ・マディン版『イレイザーヘッド』と呼べるかもしれない。恋人ベロニカに違法堕胎手術を受けさせたガイは、彼女の存在すら忘れて担当医の娘メータに恋するようになる。今度はメータの計画に乗せられ、彼女の父チャズに成り代わったという幻想から人を殺し続ける。まるで本当の父親になって娘を守っているかのように、或いは殺してしまった本当の子供に対する責任を無意識に取っているのだろうか。そして、それが幻想ということに気付いたガイはここでも父親の重責から逃げ出してしまう。

サラッと書いてしまったが、本作品では『Careful』で描かれた異性親への恋慕という関係性が二重に絡んでくる。ガイとその母親、メータとその父親の関係はガイとメータの関係に焼き直され、それぞれに対して自分の異性親を想起するというグロテスクな関係を再構築する。母親を失ったガイはその影をメータに求めることで現実(親になることとベロニカとの関係)から逃げ出し、当のメータは殺された父親への恋慕を母親への憎しみに重ね合わせ、それを過激に反復することで、グロテスクなまでに増幅させていくのだ。更には記憶を無くしたベロニカが復活し、ガイの父親と付き合い始めるという地獄まで発生し、人物の関係は混沌を極める。

ホッケー場で始まった物語はホッケー場で終りを迎える。もつれ合った関係の人間たちはホッケー大会に集結し、家族の呪縛を最大限濃縮した地獄絵図を繰り広げる。そこでもガイは責任から逃げ続け、臆病者の聖地である"美術館"で自ら蝋人形になることで責任放棄の落とし前をつけることなく世界からも逃げ出し、跪くことで自身の臆病さを証明した。
精子から始まる、男であることの重責と罪苦。中心のキャラクターに「ガイ・マディン」と自らの名を冠してしまう、そのナルシシスティックでマゾヒストな覚悟。親殺し、殺人者の手、フィストファック、子(胎児)殺し、近親相姦な愛憎。それらは欲望の発露か、受け入れざるを得ない人間のどうしようもない弱さか。隣でションベンして初めて知った、父親の陰茎が自分より遥かにデカいというショック。
セリフ無しの白黒で表現主義映画なルックだが、とにかく物語は極めて入り組んでいる。死人も幽霊としてあっさり蘇り、自分勝手に愛して、いまだに殺すほど憎み続けて。一つの明確な線で語られる話ではなく、点と点がパラノイア的な思い込みで繋がっていき、それらが「世界」として成立しているのは作り手の脳内のみ。
それで良いと思う。せっかく「映画」という何でもありの芸術と向き合っているなら、これぐらい自由に表現するべきだし、こちら側も、理屈や整合性ではなく、作り手の頭の中にギチギチに詰め込まれた妄想(それが私的な話なら尚さら素晴らしい)を全身で浴びて塗りたぐりたい。
所詮は、どこの誰だかわからない「精子」の人生を覗き見しているだけの捻れた倒錯。真面目に受け止め真顔で語るより、それらのすべてをとても哀しいギャグとして捉え、抱き合いたい(失った両手で)。ガイ・マディンの映画をぼんにゃり見ていると、常にどこかでペヨトル工房が頭の片隅に浮かんでくる。