YasujiOshiba

サクリファイスのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

サクリファイス(2019年製作の映画)
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映画館を出るとNY株が急落、サーキットブレーカが落ちていた。もちろん激震だけど、予想できたことでもある。

イタリアの北部はほとんどパニックに陥っている。核酸増幅法(PCR法)による検査を数多くこなしたののはよかったのだけど、結果として病院もパンク寸前で、いくつもの都市が封鎖されてしまった。

ロンドンの友人からも、スーパーの棚が殻になってる写真が Ridiculous のキャプション付きで送られてきた。ロンドンでさえだ。

目は見えているのに見えるものが信じられなくなるとき、ぼくらは心のバランスを失って、パニックにみまわれる。森で牧羊神(パン神)に出会ったときのようなになるという意味だ。

牧羊神は、羊の足に牡羊の角を持つ神。人間の形をした神と羊がまじる有様は、それを初めて見る者の想像力を超える。それがパニックだとすれば、 新たなウイルス Covid-19 (ぼくはこれを王冠毒19と呼んでいるけれど)を前にして、多くの人々がパニックになっているのは、そこに牧羊神を見たからなのだ。そして、その様子にはあきらかに見覚えがある。

それは、あの3/11の直後のこと。そのときはぼくも牧羊神を目の当たりにしたようなヒリヒリする感覚に襲われた。地震と津波のそのあとで、放射能という名の牧羊神がヌッと姿をあらわしたのだ。

この『サクリファイス』という映画は、あの日の数日前から始まっているけれど、あのときのことを描くわけではない。むしろ、あのときのことを知らなかったり、よく覚えていないところに立つ。そんな無知や忘却の場所から、まだ出会ったことのない牧羊神との出会い方の可能性を、幾重にも幾重にもトレースするような作品なのだ。

柳田の『遠野物語』や、朝日新聞に掲載されたエピソードもそうだし、もちろん師匠篠崎誠から受け継いだようなタッチもあるのだけれど、プロットの土台になっている猫殺しや、ミミズ、そして怪しげな新興宗教に、まるで壁抜けのような夢と現実あるいは過去と現在のカットバックは、村上春樹の物語の反復であることに間違いない。

上映のあとで、そうですよねと聞くと、壺井監督は目を輝かせた。村上春樹の物語が大好きなんだそうだ。だとすればこの『サクリファイス』という映画は、村上春樹の初期のテーマである「羊をめぐる冒険」の反復ということもできるだろう。羊男とは神なき時代の牧羊神でもある。村上の物語が、その牧羊神との現在、過去、そして未来における出会いを、幾重にもとレースしてゆくものだとすれば、若き壺井監督のデビュー作もまた、同じトレースからキャリアをスタートさせようとしているのだ。

もうひとつ、この若きストーリーテラーには他にはない魅力がある。カメラを任された柗下仁美の眼差しだ。今宵のトークショーで、杉田協士さんが明かしてくれたことだけど、大学の授業での壺井くんの撮影課題を柗下仁美が撮影していたんだとか。以来、すっかり息があったということなのだけど、これはつまり、カメラマンに四つ目があるということになる。なるほど、この作品に登場する女性たちが、なんだかすごく美しい表情に撮れているなと思ったのだけど、そういうことだったのかと納得。

最後に、ぼくの好きなシーンは、あの夢のなかの焚火をかこんででアプ/みどり(五味未知子)が、全(三浦貴大)と会話するシーン。なんだか村上にもそんな短編があったように思うけど、ぼくが思い出したのはフェリーニの『道』のジェルソミーナがイル・マットと「小石」の話をするシーン。「なんにだって存在価値がある、ほらごらんよ、ここにある小石にだったある」というセリフで有名なシーン。

イル・マットすなわち狂人によるこの「小石」の説法の根底にあるのは、神の摂理というキリスト教的な考え方なのだけど、それを言うときはふつう「小鳥」を喩えに出すところを「小石」としたのがポイント。ほとんどジョークのようでありながら、それでいて神なき時代の物理学ならば、そう言ったかもしれない「小石」(つまりこの世界を構成している最もとるに足らないもの)に向ける眼差しこそが、フェリーニの要諦なのだとすれば、ぼくは壺井/柗下のまなざしにも、その反復を感じることができたような気がしている。

だってさ、ねこちゃんのこと、あんなに心配してくれてたのだから(^^)
YasujiOshiba

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