例によってどこにも行けないアメリカ人の話なのだが、オープニングでそれが確定してしまうのは流石に笑った。「牛とか出る前に終わった…」と思った。
・ワイドな荒野ではなく、狭めの画角に身を寄せ合う人々。持たざる者の視点に徹しながら、川と行き交う船を通して200年間続くアメリカの物語に繋げてしまう。ショットでガンガン語る冒頭の流れ素晴らしい
・共通の通貨がなく、貨幣制度からして自然と人間が未分化な段階にある(家畜は自然と人間の間に浮いた存在)。人間社会が広がってきた結果、ドーナッツを買えない人が出てきて、諍いが生まれる。クッキーとキングルーの身長差を生かしたアメリカンドリームに対する目線の違いは、乳搾りの役割分担でもっとも強調される。逃亡劇で弱った2人は自然に隠れ、自然に飲み込まれかけるが、掘っ立て小屋の残骸によって再び結ばれる。斜めの落下の果て、凸凹コンビの間に新たな水平関係が生まれたと感じさせるラストは、ミークス・カットオフそのまんま。
・キングルーの初登場から、人は自然に飲まれかかっている。土を踏みしめる靴、朝の体操を見るぼんやりとしたショットは両者が一体化しているよう。床が整備されておらず、土のままの家も象徴的。
キノコの生える自然の世界から、映画は人のつながりや、商業活動を通じて人間の世界を立ち上げていく。隠れる/隠す、自然の中に存在を見出すことが繰り返し描かれる。床のゴミを外へ掃き出すクッキーの優しさが、薪割りと掃除の動きの連動に繋がる。ドーナッツを売る時、敷物を敷いて、木の板の上にドーナッツを置いて、完成品にシナモンをかけて…という「自然から切り離す」描写の丁寧なこと。行列を作る人の金の受け渡しで、土ではなく人の手の高さでカメラが横移動するのは重要だろう(横の行ったり来たりは、仲介人の家で蝋燭の火を消す場面でも)。
・ゴールドラッシュ前、街すらきちんとした形を持たない1820年代の西部で、かつアジア系移民が主役なのが新鮮。この時期は写真がなく、専門家への聞き取りからイメージを膨らませていったそう。ミークス・カットオフは伝統的な西部劇の「拡張」という印象だったけれど、今作は全然違う土地の映像を切り開いている
・激しい列車の音が外の世界を示唆し、直接的な暴力は描かない。主人公以外の一度きりの人物描写に時間をかけるのも特徴的で、彼らを見るクッキーとキングルーの視点を描きつつ、2人もフレームの外側から見つめられる構図を取ることで、西部劇の周縁にいた人を描いている。その中心に搾取されるヒロイン、牛の視点を置くのもライカート的。
・鳥を見上げる冒頭の女性→地中に埋まった骨の流れ。クッキーとキングルーは星空を見上げる