ニューランド

リチャード・ジュエルのニューランドのレビュー・感想・評価

リチャード・ジュエル(2019年製作の映画)
3.4
☑️『リチャード·ジュエル』(3.4)及び『家族を想うとき』(3.4)▶️▶️

 イーストウッドとローチ、共に変わらぬ一徹さ·信念·聡明さで、半世紀映画の世界をリードして来た巨人。政治的位置は正反対にしても。最もファンの多い『ミリオンダラー・ベイビー』(まぁ『~トリノ』かも)の内実も、社会や政治に依存しない、個人の尊厳を区切り取り·守り抜く完全なる保守主義と、前作『ダニエル~』も、体制·社会の理不尽なあり方を怒り、憤死もいとわぬ現実的な開示もあからさまな、ラジカルで革命も当然とす社会派、の差。といっても、監督と作家の度合いには開きがあって、ローチは題材は「いま、これ!」と問題意識や参加姿勢により限られるだろうが、イーストウッドはいい脚本を探り当てて、飾りなく具現化し、そこに自分の意気·感性·モラルをさり気なくいきいきと込められれば、という程度のスタンス·こだわりだろう。
 『リチャード~』。本作は嘗ての、B級的ないかがわしさ·安っぽさ·伸びやかさが戻ってきたような好ましい作品である。ここ十余年のこの作家の作品では、最も馴染み·親しみを感じる。イーストウッドの最も魅力的な『ブロンコ~』『センチメンタル~』の頃が戻ってもきたようだ。地についたフォロー(ドンデン)や·前後僅かめや左右揺れ戻り他の絶え間ない細かいカメラワーク、鈍く見えても正確に空気を押さえたアングルの切替え、暗めの生活の匂いをまぶしたような自然光だけの室内の半ばつぶれていい着実なトーン。そして安っぽいマス捉えの図の移動·粋に自然に突き抜けてくカメラトーンも。折からのオリンピック陸上レースと現場実測のカットバック、床等でスローと共に甦る爆弾悪夢イメージ挿入、といったヘンテコモンタージュも平気。
 1996年のアトランタ五輪時の付随施設の爆弾テロを、最小限に食い止めた、第一発見者にして先行避難のリードの、警備員の受難。不器用でいつ知れず社会の隅に追いやられ、同時に純粋培養された、国家の法と秩序を任う、「法の執行官」への信頼·憧れ。自らもそこを目指し、律儀·純粋に実行·行動も、大方煙たがれなのが、大金星で社会の目も一躍時の人に。が、純粋な興味·意欲からの、一般の人が踏み入れぬ銃器の収集や爆薬の知識·職場の表に出ぬ情報にも通じ、また税金も困窮で未納、らの変人·要警戒(風体·応対も見るからに)と不信を買いがち資質から、本来のその場の責任者FBI捜査官と遅れ取ってた地元マスコミの、功を焦る合体で一変。孤独で屈折·テロの典型的温床人物と決めつけられ、捜査対象·容疑者にされる。その後、目に余るプライバシー監視·でっち上げの騙し証言偽造とエスカレートが本格化。それがまかり通る、「政府+マスコミ」の力に携わる者-寄生虫ぶりとそれを疑わぬ社会、のシステムの愚かさが露わにされ、恐いというより出口のない救い難い茶番ファースとされる(今ひとつシャープさ等、キューブリック·レベルとはいかずも)。しかしより、偏屈で世をすねてる風で強い気骨も秘めたコメディ体質、本能的に公平さ·真実·人柄に導かれ·肩入れする、唯一知り合い弁護士が、主人公のお喋り応じ·情報提供癖の人の良さを封じ、敵の過剰のフェイントを浮上がらせ断ち切り大反撃·丁々発止へ。更にそれを受けた主人公は、「別人」への要請を振り切って、本来の自分を溢れさせ、証拠押さえず対象決め付け·後人の善意をたじろがせ·真犯人を泳がせてる、憧れだった最高の「法の執行官」達の堕落の行き着きを差し返して反対の土俵際に寄り切る。
 括りが例の音楽等に乗って近年のイーストウッドの、澄んで高貴な余韻の、名作調になるのが、ちと残念。もっとあっさり、粋にいなせに、と思った。が、八方美人過ぎも、用意周到·慎重冷静なまさに秀作『~スナイパー』と並び、ここ10年くらいの最良のイーストウッド映画だと思う。メイン俳優ふたり、いや四人、六人とすべきか、もたもたしたスッキリしないアンサンブルの舵取りの変転が絶妙だ、そして誠実だ。
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 ローチは、引退撤回の復帰(というより、映画以前TV時代·身近で窮迫のスタートライン戻ったような)前作からの流れを更に出口のない絶望で描く。終盤の不安を醸し出し高める音楽の途切れなさから、画面まで不穏に明滅を表してく。全体にも、浅めの切返し·対応をその場に居合わせた記録の様に、映画的立体的フィクションに染まらず平板·格調無縁に撮ってゆく。俯瞰め(退き)や望遠(アップ)、貼り付きフィットの短い左右パン、ドア前等の横顔CU、視界の動き、等入るも90°の内の傍観め維持トーンが多い。その単純·作為無しのキャンバスに、次々招くように災難·事故事件·感情爆発が降りかかり、まっすぐ誠実·正直に対応する程に、ギリギリで組んでる生活の防衛ラインの糸のほつれが決定的になってゆく。イギリスでもリーマンショックに繋がる様な融資銀行破綻の社会変動、それからローンの家も失い、元のに戻るべく、自営·フランチャイズ·スキャナー高度指示の名目が違約金·弁償のもろかぶりにはたらく宅配サービスの夫と、その為に車も手放しバスを乗り継ぎ延長·急な穴埋めにアタフタの介護士の妻。休みなく·長時間労働で、そばにいる事が大事の子供たちのケアできず、最大の財産·拠り所·過剰労働の目的の筈の家族が、心身から疲れ荒れバラバラに。子らのトラブルで仕事に穴、借金はかさむばかりの循環。それぞれに共通の元の、幸せ·安定の暮しへの強いイメージは麻薬のように、現実の荒廃を招くだけ。善意の人たちが、誇張なく柔らかく自然に描かれる事で、疲弊と狂気と叶わぬ悲願ばかりが浮いてきて、具体的取っ掛かりが見えて来ないは前作(ではそれは手に取る直前まで)以上。
 個人も、社会も、国も、表面悪徳を引き受けてるに見える者も、理性·知性から遠ざかり、当面·表面にしか向いてない相乗の結果が、眼前を狭めてくだけの危機が描かれているのだが、作者のその追い詰め方もどこかにユーモアを持つべき気もするが、そこまで逼迫してるのが
世界の真実なのかもしれない。
 ’60年代TVの世界で名を成し、映画の世界に進出し、長く自己世界を変わらず丹念·誠実に描き続ける事で、片や日本の映画論壇やファンの間で、受売りでない自然な高支持を誇ったあの名匠デュヴィヴィエを抜いて、映画史上最大人気·評価の外国人監督となり(助っ人外人最大打者の阪神バースとロッテ·リーを併せたような)、もう一方は国や映画というメディアを超えて、社会や政治に押し潰され苦しむ声なき人々の代弁者となり得た、のは演劇では難しい映画の持つ身近·着実でかつ境のない広い力の証左なのかもしれない。
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