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Zombi Child(原題)
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『Zombi Child(原題)』に投稿された感想・評価

BIFFレポート⑪[社会復帰したゾンビを巡るお伽噺] 50点

遂にベルトラン・ボネロがゾンビ映画を撮ったのか!と話題になったのかどうかは知らんが、初のボネロに適していたかどうかは議論が必要な気がする。1962年のハイチで仮死状態のまま埋められた男がサトウキビ畑のプランテーションにゾンビ労働者として誘拐されて駆り出される話と、男の孫という少女メリッサが現代フランスのお嬢様高校に入学して同級生たちとキャッキャウフフする話が単に並行して走っているだけの現代のお伽噺であり、二つの時間軸が乖離している前半は退屈そのもの。伝統校でフランスの歴史を学び、旧時代的な校則に縛られる彼女たちと意志もなく働くハイチ(古くはフランスの植民地)のゾンビ労働者との対比は、それこそ支配/被支配の関係にあるのかもしれないし、学校併設の寮で暮らす彼女たちが真夜中の学校でガールズトークに興じるのを覗き見ているのは面白いのかもしれない。観る人が観れば。 

主人公のファニーちゃんはメリッサの怪談話を聴いて、異教としてのブードゥーに惹かれていき、メリッサの叔母を頼ってブードゥーの儀式に触れる。すると、同じ時間にその種明かしとも言うべきメリッサの解説が入るのだ。お伽噺が口頭伝承だったのを、映画のくせして形態を変えることなく音だけで提示し、やれブードゥーの悪魔がどうだの、やれおじいちゃんはゾンビだったのという果てしなくどーでもいいことを並べる。種明かしと儀式は交互に語られるが、止まって会話している前者に映像的な魅力は皆無だし、散々"ブードゥーは文化だ"と言っていた叔母さんがいきなり初めて見る儀式を始める後者だってブードゥーを西欧から見た神秘(悪く言えば邪教)としてしか扱えていない。 

ジャック・ターナーって凄かった(語彙力)ってしみじみ。ボネロは割り切らず、斜に構えてる感じがしていけ好かない。釜山では前半10分から後半25分までは寝ていたんだが、二回目観たって何も物語が進んでなかった(ファニーと叔母さんの出会いくらい)。あながち間違いではなかったのかもしれない。

※現地レポート

センタムシティのCGVには一番大きく、4Kスクリーンにマルチチャンネル(いくつかは忘れた)音響に云々という、要するにバカでかくて環境も素晴らしいスクリーンが一つある。それがスタリウムなんだが、今回はそこで本作品と次のジュスティーヌ・トリエ『Sibyl』を観ることになった。しかし、正直観る前からその両作が画質を求めるような作品じゃないことはなんとなく察していたし、実際にそうではなかった。300人近く入る会場も8割は埋まっていたが、終映後の拍手はまばらだった。ちなみに、友人とは別々にチケットを取った(正確には友人が二種類の方法でチケットを取った片方を貰った)のだが、チケット交換によって隣同士になるという奇跡が起こった。
3.5
【ボネロかく語りき《退屈な学校生活もゾンビ映画にできるよね》】
第72回カンヌ国際映画祭ではジム・ジャームッシュが『デッド・ドント・ダイ』、ベルトラン・ボネロが『ZOMBIE CHILD』というゾンビ映画を出品したことで話題となった。前者の場合、『ツイン・ピークス』譲りのゆるいゾンビ映画の世界に皮肉を詰め込んだ傑作であった。さて後者はどうだろうか?ベルトラン・ボネロといえば初期作『戦争について』でカルト的動きによる同化を通じて死への渇望から生の願望を見出していくドラマを創り上げていた。今回の新作ではウェス・クレイヴンの『ゾンビ伝説』のルーツであるClairvius Narcisseの物語に基づくゾンビ映画でありながら、生と死の哲学が詰まった異色作でした。

1962年ハイチ、ゾンビはプランテーションでゾンビとして働かされていた。それから半世紀後のフランス名門校。女子高生は、先生の一方的な歴史の授業を退屈そうに聞いていた。アンニュイな彼女たちは群れをなし、退屈さを共有している。自撮りしたり、ランチに悪ふざけしたり、夜は灯りを囲んで怪談話をしたり量産型女子としての生活を楽しんでいる。確かに現代は、それなりに人種差別は減ってきているのであろう。少なくてもプランテーションで奴隷労働していた時代とは違う。黒人と白人は対等な位置で共存している。

しかし、現代にも姿形を変えたゾンビは存在しているとベルトラン・ボネロは語りたいようだ。

名門校のしきたりとして、礼儀の授業を受ける。画一的な動きをする少女たち、そこには個性がない。少し、群れから距離を置いている女子高生もいるのだが、結局クローン女子のママだ。ベルトラン・ボネロは『戦争について』で演出した身体表象によって人間をゾンビのように無個性にできることを思い出し、本作にも盛り込んでいる。正直、ホラー映画、ゾンビ映画というジャンル映画の撮り方は上手くない。恐怖を演出する劈くような音の入れ方が露骨すぎてムードだけの作品になっているのは間違い無いのだが、それでも無個性な少女ゾンビと奴隷ゾンビのマリアージュは珍味として美味しかった。

尚、女子高生の制服が可愛いので、制服フェチにオススメしたい作品である。
3.3
2019年のベルトラン・ボネロ監督作品。彼は幼い頃から熱心にクラシック音楽を学んでおり、フランソワーズ・アルディ、エリオット・マーフィー、ダニエル・ダルクなど多くのアーティストの伴奏を務めていた。その後彼は映画監督を志すようになるのだが、自分の監督作品の音楽を自ら手がけるなど、彼にとって音楽から映画は断絶ではなく地続きなのだろう。1998年に『Quelque chose d'organique』で長編監督デビューした彼は2作目でジャン=ピエール・レオーが年老いた映画監督を演じる『ポルノグラフ』を撮る。次作『ティレジア(2003)』はギリシャ神話の盲目の予言者テイレシアースをモチーフにしており、男に監禁されたトランスジェンダーの物語は支配/被支配、復活、変容という後のボネロ作品のテーマとなるものが顔を出す。これは売春宿を舞台にした『メゾン ある娼館の記憶(2011)』、天才デザイナーの人生を描いた『SAINT LAURENT/サンローラン(2014)』、社会に反抗する若者たちのテロ行為を描いた『ノクトラマ(2016)』などでも繰り返されており、本作『ゾンビチャイルド』も例外ではない。
映画における「ゾンビ」はジョージ・A・ロメロ監督が『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1968)』でゾンビを登場させたことで大衆文化に広がっていった。ロメロはその後もゾンビ映画を作り、ゾンビ映画の始祖のように扱われているが、そもそもゾンビというのはハイチの民間信仰であるブードゥー教に由来する。ブードゥー教では呪術師が死んだ人間をゾンビとして蘇らせて、自由に操ると信じられていた。ボネロ監督は『ゾンビチャイルド』を作るにあたってロメロ作品のゾンビに敬意を表しつつ、元来のハイチのゾンビを扱ったジャック・ターナー監督『私はゾンビと歩いた!(1942)』を参考にしている。

『ゾンビチャイルド』は2つの時代2つの場所が描かれる。1つは1962年のハイチでもう1つは現代のフランスである。1962年のハイチで死亡宣告を受け、掘り起こされてサトウキビ農園で強制労働させられたクレアヴィウス・ナルシスという人物の実話に基づいている。フグの毒で仮死状態となったクレアヴィウスは埋葬され、農園の経営者が掘り起こし、意思を持たないゾンビとして奴隷のように働かされる。彼が家族の元に姿を現すのは18年後のことだ。こちらのパートが実際の物語を描いているのに対し、現代のフランスのパートはフィクションだ。
ハイチ人のメリッサ(ウィスランダ・ルイマ)は両親をハイチ大地震で亡くし、2010年にフランスにやって来た。彼女の学校はナポレオンによって設立されたレジオン・ドヌール女学校という寄宿学校で、祖先がレジオン・ドヌール勲章かそれに匹敵する功績を持った人物しか入学できないところである。ファニー(ルイーズ・ラベック)はメリッサの出自に興味を持っており、自分が入っている文学クラブに招待する。というのもファニーは大好きだった交際相手の男性に突然別れを告げられ、当惑しておりブードゥーの力で彼との仲を回復させようと考えていたのだ。メリッサの叔母ケイティがブードゥー教のマンボ(巫女のようなもの)ということでファニーはケイティの儀式を受け、その間メリッサは他の友人の女生徒たちに歴史のとこや自分とクレアヴィウスの関係性を語り、2つのパートが接続される。

本作はハイチのゾンビを持ち出すことで、植民地時代の歴史と結びつけている。現代のパートでも白人の少女は自分の欲望のためにブードゥーの伝統儀式を利用しており、現代の搾取の構図への言及として見ることができる。これまでのボネロ作品のテーマであった支配/被支配、復活、変容はこの作品のためだったかと思わせるような作品である。本作のゾンビの綴りが英語の「zombie」ではなくクレオール語の「zombi」である点も見逃してはならない。