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戦争と女の顔のnetfilmsのレビュー・感想・評価

戦争と女の顔(2019年製作の映画)
4.2
 1945年秋、第二次大戦直後のレニングラード。路面電車のある暮らしは生き残った人々の生活が続いていることを静かに伝える。元女性兵士のイーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)は今もなお荒廃した街の病院で多くの傷病軍人の手当てをしている。廊下が狭く、次々に人が行き交うその病院の様子はさながら蟻の巣であり、イーヤはここで秒刻みのスケジュールをこなし、部屋へと戻る。そこには彼女の帰りを待つパーシュカ(ティモフェイ・グラスコフ)がいる。子供の瞳は純粋無垢で、何より愛おしく澄んでいる。彼のその無垢な瞳は戦争の爪痕を忘れさせるほどに生の喜びに満ちているのだが、開巻してまもなくの彼女の暴挙にスクリーンの前でただただ茫然としてしまう。PTSDを患う彼女の衝動的な出来事は合理的な説明など出来るはずがない。その瞬間、さっきまで微笑んでいたはずの仮初めの母親は、戦場の最前線で前後不覚に陥った極限の人間のような行動で絶句させる。しかし劇中に起きた出来事は容易に判断がつかない。ずっとソワソワしたままだ。緑と赤褐色を基調とした絵画のような画調は彼女の心情を現わすような真っ黒な闇へと変わるのだが、そこへ戦地から帰還した戦友マーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)がやって来る。何度もドアをノックする彼女のリズミカルで弾んだ音は待ち望んでいたパーシュカを今すぐに抱きしめたいのだ。そう、イーヤではなくマーシャこそが、パーシュカの本当の母親なのだ。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を原案とする物語には戦争映画でありながら戦争の場面が1秒たりとも出て来ない。然しながらここには戦争よりも更に悲惨な彼女たちの戦後が描かれる。戦争のトラウマを抱えたイーヤとマーシャは確かに生きているのだが、無傷ではいられない。マーシャの問いかけにひたすら押し黙ってしまうイーヤを彼女は一切咎めようとしない。普通は絶望の事態に陥らせたイーヤを咎めて然るべきだろうが、マーシャはイーヤを咎めようともせず、心底救いの見えない場末のダンスホールへと誘うのだ。急に入れ子構造の様に現れたサーシャ(イーゴリ・シローコフ)は永遠に会うことが叶わないパーシュカのような目をしている。心底会いたかった息子の代わりに現れた青年は女と初めて性交を結ぼうとするがマーシャはその姿を明らかに拒絶する。拒絶しながらも結局は青年に身を任せる。だがイーヤとマーシャの関係性はまるでトッド・ヘインズの傑作『CAROL』のように不思議な関係性を醸すのだ。歪みゆく心の中でマーシャが請うた生への希求にのっぽのイーヤは痛々しくもある一つの解を得ようとする。介護施設への転院を拒む者、院長としての合理的判断と倫理とのはざまで揺れ動く者、そしてテーブルを叩くことでしか両親への抵抗が出来ない若造などここには様々な男たちも出て来るが男たちの姿はどれも後退し、最後には2人の女の生への希求だけがクローズ・アップされる。ラストの路面電車の鈍重な場面には肝を冷やしたが、それ以上にぞっとしたのはマーシャを見つめたサーシャの母リュボーフィの目だ。同じ戦争を体験しながらも、マーシャとリュボーフィの見つめる彼方に悍ましい距離を感じ、ひたすら胸が締め付けられる。
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