【赦しとは】
終始、ダニエルの眼光と向き合うことになる。
「赦すとは忘れることではない。
赦すとは愛することだ。」
カトリックの赦しを、つまり、愛することだと理解できなくとも、赦しとは忘れることではないだろうとは思う。
では、赦しとは何だろうか。
この映画は、実際にあった事件にインスパイアされた作品とのことだが、少年院を仮釈放になったダニエルが司祭として傷付いた村人を癒やそうとするストーリーをフレームワークに、赦しとは何かを考えさせるものだと思う。
交通事故で子供を失い、同時に亡くなった運転手はおろか、その妻さえも赦すことが出来ない村人。
忘れようと努めても、怒りや悲しみを忘れることは出来ず、そこには赦しもあるはずがない。
「ここに(村に、そして、教会に)、いなかったことにしろ」と迫られるダニエル。
「(決闘で相手をぶちのめした後)ここに、いなかったことにしろ」と迫られるダニエル。
「いなかったこと」は、忘れることと同義ではないのか。
いなかったことにして、赦されるわけではないはずだ。
信仰とは、ある意味、矛盾かもしれない。
仮に神が赦しても、社会は赦さないかもしれないのだ。
仮に社会が赦すことがあっても、それは、その人が忘れ去られるということかもしれないのだ。
「赦すことは忘れることではない。
赦すことは愛することだ。」
神は、結論を示すが、道筋は示さない。
ダニエルが序盤に言う「(神に)評価するのではなく、理解して欲しいのだ」とは、重要なポイントだ。
僕達も、社会も、本当に赦そうと思うのであれば、実は理解しなくてはならないのではないのか。
教会のミサで、列席するように促された運転手の妻は、理解してもらって、赦されたのだ。
神が赦すとは、そういうことなのだ。
そう、人々が理解し、赦すということなのだ。
僕達が道筋を見つけないとダメなのだ。
その努力をすることが実は信仰なのではないのか。
忘れることや、「ここに、いなかったことにする」ことで赦されるわけではないのだ。
思考を要求する重厚なストーリーだ。