聖なる犯罪者の作品情報・感想・評価

「聖なる犯罪者」に投稿された感想・評価

CHEBUNBUN

CHEBUNBUNの感想・評価

3.0
【緑の教祖の眼光が市民を貫く】
第92回アカデミー賞で国際映画賞にノミネートされたポーランド映画『Corpus Christi』を観ました。仮想世界の持つ悪魔的世界を描いた、邪悪版『レディ・プレイヤー1』こと『ログアウト』を放ったヤン・コマサ監督が人間の本音と建前の世界を描いてみせた。前哨戦であまり目立っていなかった本作が突如アカデミー賞にノミネートできたのは、アメリカが強烈な指導者や理論に振り回されがちでそこに親近感を得たからなのではと思っている。そんな『Corpus Christi』の感想を書いていく。

少年院の製材所、秩序良く作業が行われているかと思えば、見張りが鋭い眼光で画面の外側を睨む。そして背後では凄惨なイジメが行われる。カメラはぐるっと見張りの後ろに回り込み、自然な流れでいじめは一時中断する。何故ならば監視がやってきたからだ。この一連の流れは、本作における本音と建前の構造を暗示していると言える。建前上は、問題なくやっているように見えて、実は裏では問題を抱えている。そんな世界をヤン・コマサ監督は描こうとしているのだ。

少年院上がりの熱心なキリスト教徒であるダニエルはヒョコんなことから、神父になるチャンスを得る。彼は神の世界を信じているため、全力でミサを行う。Bartosz Bielenia演じる主人公の眼光は鋭く、緑の正装でミサに励む様はもはや教祖そのものである。危なげながらも魅力的な彼に信者が集まって来る。そして彼は献身的に弱きものを助ける一方で、村に蔓延る憎悪を吐き出す場を提供する。信者が多数集まる場で、感情を吐露させる。中には、「このクソビッチが!」と汚らしい言葉を吐き出す者もおり、信者はドン引きするものの、「何がいけない?」となんとなくの感情でドン引きする市民を封じ込めるのだ。これはある意味、宗教が感情的なものに支配され、一見正論に見えて矛盾に満ちていることを示唆している。そして善人であり続けようとするダニエルですら、少年院上がりだ。

だが、そもそも問題を抱えた者が改心して神学校に入ろうとしても入れない状態自体矛盾しているのではないだろうか?

人間の表と裏を、ダニエルという個という存在と村という群の存在を通じてひたすらチクチク突いていく。

Black Lives Matterやコロナにおける歪な対立構造が次々と起きている中で本作は特効薬と言える。そして、本作は日本でも公開されなくてはいけない作品だと感じた。そういった政治的話だけではなく、冒頭とラストの凄まじいカメラワークは必見である。日本公開は未定ですが、観られる日が来ることを期待したい。
韩城

韩城の感想・評価

4.0
比同为宗教题材的《The Two Popes》好看太多了,故事非常的有吸引力,丝毫不俗套,男主角也演的很好。
[神父ダニエルかく語りき] 50点

ある少年院の作業場で、リンチを背に監督員を見張る少年ダニエル。薄ら暗い作業場から外を覗く彼の顔に光が当たり、その吸い込まれそうなほど青白い虹彩に目線まで吸い込まれてしまう。そう、これはダニエルを演じるBartosz Bieleniaの、特に目の映画なのだ。ヤクをキメて大きく見開かれた目、使命感を帯びた目、哀しみを共有する目。決して多くは語られない過去を、その目一つで語ってしまう。ヤン・コマサ単独長編三本目である本作品は、誰しもが抱えた罪に対して温かく寄り添う青年を描いている。実際の出来事を題材にしているが、ダニエルの過去などのキャラ設定は創作した部分も多いようだ。

仮釈放の身となって田舎の製材所に派遣されたダニエルは、ひょんなことから新任の若い司祭と間違われ、それを利用して司祭になってしまう。"何が司祭を司祭たらしめるか?"という根本的な疑問に真っ向から突っ込んでいったこの設定は、一辺倒なキリスト教批判の文脈を軽々と超えてしまう。少年院で熱心なキリスト教徒になったダニエルは、その経歴故に神学校への入学が叶わず、本質的なキリスト教と今の宗教との解離ついて思うところがあり、それを全て吐き出したかのような形になっているのだ。この村の人々はよくある"近所付き合いと週一の生存確認にミサを使っている"わけだが、ダニエルは教会だけに留まらない親しみやすい宗教者として"隣人愛"を広めていく。それも、高尚な概念としてではなく実践する細やかな現実として。

そこに登場するのが、彼の人生をプレイバックするかのような事件の存在だ。村では最近6人の若者が自動車事故で亡くなったばかりで、衝突した相手を飲酒運転の殺人者だと決めつけて未亡人に向けた嫌がらせを行っていたのだ。コミュニティから唐突に追い出された未亡人は、そのまま社会から新学校から締め出されたダニエルの境遇に重なる。映画は後半にかけて、何を犠牲にしてでも分断された村人たちを再びつなぎ直すダニエルの絶望的な努力が展開される。ダニエルは許しや贖いの場所としてのみ教会があることをもどかしく思い、怒りや哀しみを吐き出す場所を提供して住民たちの鬱屈した感情を一手に背負い受ける。事なかれ主義の人々に対しては、"許すこと、忘れること、最初から何もなかったように振る舞うことは全く違う"として連帯を呼びかける。そして、この分断はカチンスキ大統領を失ったキリスト教大国ポーランドが、それ以降10年に渡って"神の啓示"派と"ただの事故"派に分断されてしまっている故国の現状すら圧縮している。

ダニエルは何の目的で身分を偽り続けたのだろうか。彼は地元の市長や刑事にバレそうになっても逃げることなく司祭としての仕事を全うしようと奔走する。見方を変えると、見知らぬ土地で別人になりすますことは、過去から逃れられない人生をリセットし、完璧な理想を体現することが出来るということにもなる。考えてみると、プリミティブな意味での"隣人愛"の実践や、セラピストまがいの越権行為、若者との酒を交えたぶっちゃけトークは確かに宗教者としても人間としても理想的すぎる。そんな理想的な人間を演じて、分断された村や迫害された未亡人を救うことで、同時に自分自身を救っていたのかもしれない。

★以下、多少のネタバレを含む

しかし結局、過去はダニエルを掴んで離さなかった。甘い詩情や夢物語は厳しい現実を前に弾け飛び、荘厳過ぎる退場によるおとぎ話のような物語も一気に現実に引き戻される。冒頭の手持ちカメラによる荒々しいリンチが反復され、逃れられなかった過去を再現するかのような体験が繰り広げられる。彼は元に戻ってしまったのだろうか?そのクロスカットで描かれるのは同じ時間の村の状況で、偽善と哀しみと怒りによって止まった時間はダニエルが残した爪痕によって再び動き始める。二つの時間は重なり合って連続しており、ダニエルの人間性が連続していたことすら示唆している。理想的で完璧な別人を演じていたのかもしれないが、ダニエルは常にダニエルだったのだ。

"神の国は時空の彼方ではなく、今ここにあるのだ"というダニエルの叫びが耳に残り続けている。奇跡はそう簡単には起こらなかったが。