夜

涼宮ハルヒの消失の夜のレビュー・感想・評価

涼宮ハルヒの消失(2010年製作の映画)
-
キョンと長門に焦点を当てた物語。163分の長さを退屈させずに観させられるというだけで充分、ちからのある作品だと思う。

管見の限りでは押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』以来、アニメ作品を中心に、願いの叶う夢の世界と思い通りにいかない現実世界の二者択一を設定した上で、現実を選び取ることの倫理を主題とする系譜ができている。もちろん『涼宮ハルヒ』シリーズもこれに連なるが、このシリーズの特異なところは、帰るべき日常=現実がそもそもハルヒの願望によって創造された夢想世界という点にあると思う。本作でキョンは現実的な事象しか起こらない世界を否定して、超常現象に満ちた日常への帰還を希望する。これはゼロ年代後半に支配的だった日常系への恭順に見えて、その実それを脱構築するようなところがあるように思う。

個人的にこの作品が好きなのは、登場人物がハルヒという創作者に反旗を翻して自立的に動きだす世界を描きながら、テレビシリーズで彼らが我慢してきたことが明らかになっていくところだ。例えば、シリーズを通して小泉があそこまで本音を曝け出したことがあっただろうか。キョンが存在そのものをハルヒに肯定されているのに対して、小泉は自分が筋書きのためだけに用意された都合のいいキャラでしかないと思っていたというのはかなりきつい。要するにみんながハルヒの思いつきを楽しみながらも、我儘に付き合わされることで積み重なったひずみは確実にあったはずで、それら全てが長門を起点にして掬いあげられたのだと考えると感慨深かった。

また、全知かつ合理的な存在が「感情」という知を内包した瞬間に合理性にバグを起こすというのは定番だが、それが「エンドレスエイト」での1万5千数百回の日常の積み重ねによるものというのも心憎い。長門の表情がほんの少しずつ柔らかくなっていく過程を目撃してきた視聴者にとっては、これほど説得力のある根拠もないのではないか。それと同時に、なかったことにされてしまった消失後の世界の長門を考えると一抹の寂しさも感じる。長門にそのままでいいと言ってくれるキョンは確かに長門の存在を肯定しているが、この映画版が長門が「そのままでない長門」を認めてほしいと思ったところから始まったのだと考えると、消失後の世界の長門がなかったことにされてしまうのにもまた切なさが残るのだ。
夜