【オダジョーの「ラーメン食べる?」は完全に黒です】
単館系映画(『希望のかなた』)を観ながら冷めた目をしてるのも、自己啓発本を立ち読みし出すのも、暗闇の中でパズドラをやるようになるのも、すべて「文化的体力が失われる」という言葉で言い表したツイートが昔バズってたけど、肩書きをそこまで重要視していなかった大学生の自分たちの輪郭を模っていたのは趣味(ここでは"サブカルチャー")だった。
けど、そのうち成長して社会人になり、生活に責任が伴ってきて、結局協調性も人並みにある人間は、蓋を開ければ"(サブカルチャーに造詣が深い)一般人"として社会に溶け込めてしまう。アイデンティティの一つだった趣味は、社会を生き抜く上で必要ないということも気付いていく。
でも社会に順応することでどんどん即物的な人物へと変化する過程は、決して"面白みがなくなること"と同一ではない。男の社会、女の社会。それぞれに身を置くことになる麦と絹にとって、サブカルチャーの固有名詞はツールとして2人の関係を繋いでくれていただけで、そもそも最初から同じ景色を見ていく2人ではないということが明るみになっていく。
趣味を活かした仕事に転職した絹の選択には、麦が担っている"生活の責任"は伴わないから、麦にとってはそれが「人生舐めてる」「甘え」に繋がってしまう。
男女の社会的地位が平等になりつつある今でも、やはり家族を養うor養われる側の意識の違いがこうやって職業観にも顕著に現れているように思えた。
社会に適応していく内に自分のアイデンティティだった趣味が過去の遺物になった男と、趣味へのこだわりがなくなった男を「昔と変わってしまった」と嘆く女。どちらが悪いとかではなくて、担っている社会的責任と見えている景色が違うのだからずれていくのは仕方がないことなのかもしれない。
あと、「社会に出るのはお風呂に入ること」というセリフの伏線からのお風呂場で亡くなった先輩の葬式に行く流れは、社会に殺されたという暗示のように受け取ってしまった。