DJあおやま

さよならテレビのDJあおやまのレビュー・感想・評価

さよならテレビ(2019年製作の映画)
4.2
“セシウムさん騒動”の東海テレビが、オワコンと揶揄されるテレビの在り方を描いたドキュメンタリー。若者のテレビ離れが叫ばれているが、自分はいまだに根っからのテレビっ子だと自負している。そんなテレビっ子からすれば、大好きなテレビの裏側を見ることのできるドキュメンタリーは興味深い。ただ、この作品は単なる業界の裏側的なドキュメンタリーではなく、テレビの在り方を問うた、嫌に重々しくシニカルな作品だ。

本作は、東海テレビ報道部でドキュメンタリーのためのカメラを回すと説明するシーンから始まる。なんとも前時代的な職場の雰囲気に、観ているこちらにも嫌な緊張感が走る。加えて、報道部の1人が撮影することに対し怒りをあらわにするのだから、いよいよ胃がキリキリしてくる。ただ、勝手にカメラを回すという行為はお前らもやってきたことじゃないか。いざ自らにカメラが向けられるとこうも拒むものかと、その虫の良さに少し腹立たしさをおぼえた。

そんな雲行きの怪しさを感じるシーンから始まるこのドキュメンタリーでは、主に3人の人物がフォーカスされる。それぞれがテレビの在り方に翻弄されて、それぞれに思うものがある。
1人目は、福島智之アナ。自分は生まれも育ちも名古屋だが、この方をまるで知らなかった。おそらく何度も見ているだろうが、まるで意識してこなかった。どうやら、先の“セシウムさん騒動”のあった『ぴーかんテレビ』の司会も務めた人物とのこと。小柄で童顔、いかにも誠実そうな見た目や喋りに、どこか違和感というか胡散臭さをおぼえた。ただ、彼を紐解いていくと、どうやら例の騒動でバッシングを受け、報道に対する姿勢に影響を受けたらしい。けっして福島アナが起こした事件ではないものの、司会を務めていた番組での出来事となれば、最前に立ち謝罪をしなければならない。そうすると、自ずと批判の矢面に立たされてしまうのだから不憫だ。この騒動によって、間違った情報を発信して批判されぬようより慎重派になったいうのが、見ていて苦しかった。インターネットが発達し、批判の声が当事者に簡単に届いてしまう世の中で、メディアでミスを犯すことがどんどん恐ろしいことになっているということを痛感した。その騒動以降、苦悩を抱える彼は、ある時、メインキャスターを務める番組を降板させられてしまう。それも、お年寄り層の視聴者を意識したキャスティングで、2回り以上歳上のアナウンサーにバトンタッチなのだから心中は複雑だろう。ただ、そんな彼が街ブラロケで、街のお年寄りから強く勧められ、昼間からお酒を飲むシーンには、強くカタルシスを感じしてしまった。
2人目は、契約社員の澤村さん。もともとは経済誌に携わっており、メディアとともに生きてきた人物(自宅の壁一面の本棚にメディア系の新書などがびっしり)。少々堅苦しく、やたら問題提起をしたがる、はっきり言ってめんどくさいタイプの人なのだが、この人がこのドキュメンタリーの担い手であり、観客に対してテーマを与えてくれる。かの共謀罪をめぐる一件に対する彼の行動によって、改めてテレビの在り方を考えさせられ、テレビの“権力を監視する”という役割を強く認識した。また、次で語る渡邊くんが契約を切られることを上司が「卒業」と表現していたことに対して、彼が苦言を呈していたのも印象深かった。
3人目は、派遣社員の渡邊くん。彼には、登場早々、いかにも仕事のできなさそうな人という印象を受けてしまった。常にニヤニヤして、スーツの着方もだらしなく、案の定仕事もミスばかり。彼の自宅の様子が映ると、そこにはアイドルやアニメのグッズに埋め尽くされ、ゴミでちらかった光景が広がる。そして、テーブルには大量の吸殻の入った灰皿がちらと見えた。そんな映像からも彼のどうしようもなさがよくわかる。そんな彼が地下アイドルのライブではしゃぎ、握手会ではアイドルから励まされ、テレビマンとしての夢を語る。ここまで悲哀の詰まった映像はなかなか観たことがない。ここまでステレオタイプな人の映像を見せられると、つい笑ってしまう。先述のとおり、彼は入社1年後に、契約を打ち切られてしまうのだが、その後大阪の地方局で働く姿が映し出され、思わずぐっときてしまった。人が夢を持ちがんばっている姿を嘲笑う自らの、人間としての矮小さに少し嫌悪してしまった。


【以下、ネタバレ】


そんな3人のドキュメンタリーで終わらず、エンディングには大きな仕掛けが待っていた。それはこのドキュメンタリーのなかのできごとがすべて、まるで演出により作り出されたものかのように思わせる映像だ。何度も言うが“セシウムさん騒動”を起こした、あの東海テレビが、テレビというメディアの信頼性を揺るがす挑発的な仕掛けをしてきたのだ。作中、何度か澤村さんが口にする「ドキュメンタリーは現実か」という問いが、まさしくこのドキュメンタリーの肝なのである。もちろん、すべてがすべて演出ではないだろうが、どこからどこまでが演出だったかは明かされていない。ドキュメンタリーは、膨大な映像データから取捨選択され、構成された映像群なのである。都合の悪い映像を省くことは容易い。テレビというもの自体もそうで、テレビに映ったものがすべてではなく、何を映すかが必ず選択された上で放送されているのである。あまりに挑発的な仕掛けに思わず舌を巻いてしまった。
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