ちゃんゆう

プロミシング・ヤング・ウーマンのちゃんゆうのレビュー・感想・評価

4.6
端的にいえば、本作「プロミシングヤングウーマン」は「なぜこの世の中が女性にとって最悪なのか?」についての華麗なる証明であり、そしてそのロジックは「すべての原因はミソジニーである」と主張するラディカルフェミニズムの根本思想をレファレンスしている。
ミソジニーとは、単なる女性嫌悪感情のことを指すわけではない。女性を家庭の中で隷属的な立場に追いやる家父長制秩序は、「女性は男性を支えるべきだ」というミソジニー(ペイトリアーキー)に由来するし、「女は会議で話が長い」という失言も女性にはそう言う種の欠陥があると言うミソジニー(ニューロセクシズム)に由来する。
もっと言えば女性が「お料理の勉強をしてえらいわね、将来お嫁さんになったら必要だものね」と若い女性に対して些細な賞賛をするのも、「女性は将来結婚したら家事を担当するべきである」という家父長制を支持する発言になりかねないため、これもミソジニー(インターナライズド・セクシズム)と捉えることができる。

「おいおい、そんなこと言ってたら世の中ミソジニストばかりじゃん」
そう、その通りである。
「そんなこと言ってたら性に関することなんて何も言えなくなっちゃうよ」
そう、その通りである。

だから本作においては、直接的な性描写は一つも描かれていないのである。ラディカルフェミニズムの思想においては、ポルノこそ、最も露骨なジェンダーに対する抑圧である。もちろんこれらは男性に限定した問題ではない。女性が男性にモテるために男性の需要にコミットしようとすることも、映画の中では明確に、悪として描かれている。だから主人公は男だけでなく女にも復讐する。「結局モテるのって男の気持ちがわかってる女よ」こんなことを言う女性は主人公にとって「私たち女性は奴隷であるべきだし、奴隷として強かに生き抜かなきゃだめよ」と言っているのと同じである。いつの時代も悪の独裁君主制は、卑近で卑怯な権力者によってもたらされるのではなく、無知で無神経な奴隷の支持によってもたらされるのだ。

本作は、奴隷であることを拒絶し、真にジェンダーから解放されて自由に生きようとする勇敢な女性の闘争の物語である。
ただ、一つ欠点を挙げるとすれば、あまりにも正確に、政治的に正しくフェミニズムの引用をしようとしてるが故に、映画自体がフェミニズムのプロパガンダ映画になってしまっていることではないか。興味がある人は、デートレイプ、セカンドレイプなどの言葉で検索してみるといいと思う。昨今のフェミニズムで問題視されてることのほとんどが、本作では具体的な事象として扱われている。ただ、ストーリーの中で一つ一つ具体的な事象として肉付けされたプロットは非常に巧みだ。冒頭のシーンで、主人公に甘露酒を注いで渡す男のコップをよく見れば、この男がいかにゲスなのかがよくわかるし、劇中で効果的に使われるパリス・ヒルトンの楽曲が意味する狙い。一つ一つが非常に効果的な演出として使われており、監督の確かな才気を感じざるを得なかった。そして何より、驚くべきは大胆なプロットの省略だ。「何か恐ろしい復讐が起きている」それは画面の前の誰にでも伝わる事実なのに、一体何が起きてるのかについてはほとんどが省略されているのだ。つまり目を覆いたくなるようなグロテスクな画面は必要ないということである。前後の絵さえしっかり作れば、何が起きたかは見せる必要がない。それは脚本と演出に対する自信の裏返しである。