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雨あがるのmatchypotterのレビュー・感想・評価

雨あがる(1999年製作の映画)
3.8
《侍の映画》、Vol.12。『雨あがる』。

黒澤明氏が脚本を執筆中にこの世を去ってしまい、残った者で完成させた作品。

『七人の侍』、この企画で『隠し砦の三悪人』『用心棒』『椿三十郎』と、黒澤映画の本当に良いとこ獲りをしてしまい、すっかりその世界に飲まれてしまう。

にわかの感じになってるのは自分でもわかってるけど、ここまで来たらこれも観ないといけないような使命感に駆られてクリップしてなかったけどチョイス。

良かった。この雰囲気が良い。
三船敏郎がいないからか、あの猛々しい雰囲気はないけれど、黒澤氏が最後まで携われなかったからこの結末が正しいのかはわからないけれど。

黒澤イズムというか。

ここまで観た黒澤監督時代劇と同じような、どんな時代であっても、どんな身分であっても、どんな都合があろうとなかろうとその瞬間を生きようとする日常の連続というか。

腕はあるのに、何故だか出世や宮使いと縁がなく、藩を抜けては夫婦で睦まじく質素に流浪の侍を繰り返す寺尾聰。
明日はどこ吹く風と言わんばかりの旅の途中。

長雨に川が増水し、足止め。
そこでたまたま同じ宿の屋根の下で暮らす同じく足止めされてる貧しい人々との暮らしを通して起きたことが城主につながり、城の剣術指南の師範の話が、、、だが、しかし、と言う話。

途中まで何が起きてるのか、何でどうしてこうなって、それでも何で最後にそうなるのか、話を掴むのにちょっと時間かかった。

でも、かえってそれが良かった。
「賭け試合、しましたね?」が何なのか本当の理由や背景がわかってなかった。

それがわかった時の、この寺尾聰や宮崎美子の言動や、この作品の伝えたいことも一緒にグワっと来る。これが良い。

前半の宿でのどんちゃん騒ぎとかなんでいきなり?とか思うけど、これが後からすごい意味を持ってくる。

そして、後半の剣術指南の話のすったもんだからの“賭け試合”がここにオーバーラップしてきて、トドメの宮崎美子の“デクの棒”発言。

観たことない人からしたら、何言ってんのかよくわからないと思うけど、観てるこっちも途中まで何の話でどう着地するのか不安になってくる。

でも、全体通せば、色んなところが繋がる。
そして、寺尾聰の人となりや、彼らにとっての人生や喜びって何なのか?が見えてくる。

「何をしたのか?ではなく、何のためにしたか?」

まさしくその通り。

寺尾聰演じるうだつの上がらない侍も、剣の腕があっても、真面目に取り組もうとしても、優しさがあっても、何でか縁に恵まれなかったり、運が悪くてたまたま1回の後ろめたさが後を引いて成果を出せなかったり、人に認めてもらえなかったり。

現代にも、真剣で仕事できるはずの人なのに、何でか上司とうまくやれなかったり、機を逃したり、ドツボにハマる時はあって、何かそれに近い感じがする。

それはそれでそういう星の元に生まれたような人はいて、それはそれでその人にあった生き方がきっとある。

一般的にこうあるべき、自分の実力ならこうなれるべき、みたいな枠を外せば案外他の道もあるのかも知れないと思える映画。

そもそも「今度こそいけると思うんだよね」も、それを何度も目指すのが正解なのか、みたいな。

脱力系の雰囲気の中で、力強く1つの“生きるとは?”の答えを提示してくるような作品。

少しずつ肉が切れ始めたけど、気付いたら骨を絶たれてたみたいな良い意味で静かな驚きを感じれた。

青々と瑞々しい自然の風景にも癒された。
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