都部

小説の神様 君としか描けない物語の都部のレビュー・感想・評価

1.0
決定的な愚作。安直な劇中歌の使い方や色彩やCGIを用いた過剰な演出は軽薄に上滑りするばかりで、泥臭くも物語を紡ごうとする語り部達の台詞やドラマに取り返しのつかない陳腐化を招いている。こんなにも酷い実写化を見たの久し振りだ。

物語は酷評/売上不振を受けて小説の力を信用出来なくなった語り部の葛藤から始まるが、三周遅れのセンス丸出しの白黒(モノクロ)による画面構成はダサすぎるし、小説という文字の媒体だから画面に映る文章とそれっぽい雰囲気を帯びさせる為に白黒にしてます感が甚だしい。別に世界への失望で色を失ったとかそういう文脈を理解できなくはないのだが、色を取り戻す瞬間の感動の描き方が安易極まりなく、主張の強い青春っぽさに塗れた劇中歌で背景で流してそこのカタルシスの味を濁らせるのは自分の配置してる演出の妙にあまりにも無頓着過ぎるだろ。

この劇中歌や劇伴の扱い方が本当に駄目で、登場人物がそれらしい台詞をキメ顔で述べたら待ってましたとばかりに台詞を描き消す音量で流れ出す。はぁー!?っていう。今どきまだそんな邦画の悪癖に頼ってる作家がいるのかと。これも別に作品の内容やその時の人物の感情に沿った歌詞だとか曲調でもなく、いわゆる青春感だけが売りのポップスを恥ずかしげもなくよく流せるよなと。いや、曲に罪はない。まずこの物語をキラキラの青春物として捉えて──ポスターの段階でもう嫌な予感はしたんですよ──そういう音楽を持ってくるセンス。ちゃんと原作読んだんですかと苦言を呈さずにはいられないスパイスの付け方。

映像作品ならではの妙を引き出したいのは理解できるけれど、その結果として出力されるのが重みも何も無い花畑のCGIとか光沢の付いた背景だったり、本作が扱ってる問題の深刻さ/重さを尊重するのが普通は先決なんじゃないですか。代替として機能してるまだしも、貧弱な想像力によって導き出された『物語って素敵だね』みたいな浮ついた視点が透けて見える演出を見たらそんな好意的解釈は出来ねぇよっていう。

脚本も脚本なんですよね。この作品で大事なのは"それでも物語を書き続けたい"という真摯さにあって、主人公二人組の青春ロマンスは副次的な要素なんですよ。互いに互いを認めた物語の語り手として、性別を超越した信頼関係の結実が素晴らしいんでしょう? というかロマンスも半端なら、障害にぶち当たる個人のドラマとしても半端で、原作で受けるどうしようもない/もうどうにもならないという辛さだったり苦しさだったりを俳優の演技任せで見せすぎだし、俳優もそれを表現する機会を奪われている。

特に顕著なのは千谷一也が書き上げた物語に没を食らって部屋で呻くシーン、見栄えする所だけ取って本当に辛くて涙を流して自分の物語を破いてしまうシーンは声だけ見せるとか、そこが一番大事なんだろって話だよ。そこがあるから、それでも再起する語り部の意志の輝きや小説を書き続ける人間の精神性の素晴らしさを見せられるんだろ。なんでそういう大事なところを適当なカットで画面外で流すんだよ。ふざけんなよ。

先輩の作家との交流や編集者とのドラマをオミットする判断は尺を考えたら正解ですけど、結果それで薄くなるドラマに別の厚みを持たせることもまったく出来てないから作品としての薄っぺらさがどんどん進めば進むほどボロボロと剥き出しになっていく。でもなんか、いい感じの流れだからいい感じの音楽を流して『決まったー!』みたいなカットで場面を切っていく。いいわけねぇだろ。本当に原作の展開を表面的になぞり過ぎだし、乱立する縦軸を雑に放棄するEDは空いた口が塞がらない。
小説のことなんかこの映画は多分どうでもいいんですよね。小説書いてる高校生の苦悩の青春っぽさが大事なんですよ。隠す気すらねぇなコイツという怒りが爆発するラスト。作中で『そこは感情を抑え目に……』とか小余綾詩凪が小説にアドバイスをしますけど、この物語にこそ適切な強弱や緩急が必要だったと心から思いますよ。
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