ヤマダタケシ

無頼のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

無頼(2020年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

2020年12月 Ksシネマで

【とにかくいい顔だった】
 今作出ている俳優のほとんどがあまり有名じゃない人ばかりであったし、顔を見たことがある俳優さんも他の作品で脇役として見る人ばかりであった。
 ただどの役者も総じて顔が良かった。主役を演じたEXILEのMATSUさんも、人の良さと粗暴さを兼ね備えたような顔だったし、明らかにアウトローな顔をしている中村達也も良かった。それ以外も、過去の井筒映画でいい感じの脇役だった人ら(『パッチギ!』の愚連隊や『ヒーローショー』のヤバい兄弟)や、はじめて見る俳優だけど明らかに顔が良い人らばっかりだった。
 それは無名であるために、その顔自体にイメージがついていない俳優さんたちであり、彼らが画面中を覆いつくし暴れる様は、そこで描かれるはぐれ者たちの昭和史に実在感を与えていたように思う。
・個人的には主人公の右腕的なポジションを演じていた松角洋平さんが、どことなく仁義なき戦いシリーズにおける小池朝雄にソックリだと感じた。

【ただただ昭和史だった】
 今作を観て真っ先に思い浮かんだのがマーティン・スコセッシの『アイリッシュマン』だった。生き方として自然とヤクザを選ばざるえなかった〝普通の〟男を通して、戦後の時代を描いて行くその構造はソックリだ。
 ただ『アイリッシュマン』が彼らの、その時代だから通用したマッチョな生き方自体が通用しなくなっていく過程を描き、その果てに彼らの生き方そのものが決定的に時代に取り残されていくのを描いたのに対し、今作は主人公をその一歩手前のところで出家させることによって、『アイリッシュマン』が迎えたような末路を描かなかった。
 正直、存在自体があいまいになってしまった裏社会の側から昭和史を描いた今作が、00年代という現在に繋がる時代の手前で終わり、主人公にとってのそれがなんだったのかを語らせず、まだ究極的な末路の手前で退場させた今作は、映画のラストとしては何も言えていない気がした。
 ラストのアジア圏への旅立ちは、彼自体のアイデンティティが何も持っていなかったあの頃にある事を示し、その時代にしか生きられない男が、まだそれが通用する場所へと向かって行くという意味において、ある意味、もう現代にこの生き方は通用しなくなったことを描いていたとも言える。
 ただ、『アイリッシュマン』がそれをある種の空しさとして描いたのに対し、今作の多少ロマンあふれる終わり方には違和感を感じた。

【淡々としていた】
 ただ同時に『アイリッシュマン』がかつての彼らの花かりしころを賑やかに描いていたのに対し、今作は徹底した淡々とそこにいる彼らを描いていた気がする。
 身体を張り刑務所に入り出所しの繰り返し。その生き方を淡々と描いていたと思うし、それが段々通用しなくなっていく様を淡々と描いていた気がする。
 それは日常系という訳ではないが、そこでのヤクザ同士の何気ない日々、事務所の中での分かりやすい上下関係や、当初ぺーぺーだったキャラクターの服装や顔立ちが変わって行く様など、そういうところにこそ今作の豊かさがあるように感じた。

【ポリコレ】
 ほぼ誘拐・レイプに近い奥さんとのなれ初めや、暴力を通した上での関係性の構築など、今作の前提になっている価値基準自体が、正直今のモノから比べるとズレている気がする。 ただ、特に暴力を通した上での他者とのコミュニケーションというのは、井筒監督がずっと描いてきたものであり、今作が描いた時代に取り残されていく男たちの姿は、なんとなく井筒監督自身と重なって見える感じがした。
 それは何気なくヤクザたちの口に上がる『仁義なき戦い』や『ゴッドファーザー』などの作品のタイトルからも連想された。これはサービスとして映画のタイトルを入れてるというよりは、映画が当たり前の娯楽だった時代の会話であると思うし、この作品が描いていたのはヤクザの時代であると同時に、映画がちゃんと大衆の娯楽だった時代でもある。だからこそ、今作から井筒監督を想起する。
なので『無頼』はその存在自体がなんとなく愛おしい映画であった。と同時に、その愛おしさはかつての粗野さに対するノスタルジィでもあり、少なくとも前作までは現在のバイオレンスを描いていた井筒監督が、もはや過去の人になってしまったのではないか?という恐れを感じさせもした。

この映画自体が語っている物は実は少なく、ただただ生きざまというよりは、そういう生き方だけが淡々と描かれていた気がする