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キネマの神様の010101010101010のレビュー・感想・評価

キネマの神様(2021年製作の映画)
2.0
監督のご都合主義的な妄想についていけない。
どこまでも「大衆」というものにこだわりつづけた監督なのだとは思う。
が、個人的に、「そこのところ、扱いが雑すぎねぇか?!」と思わされるポイントが多すぎる。

監督なりの、映画への愛をカタチにしておきたかったんだろう。
幾つになっても、映画を前にすると心は煌めく青春時代に戻ってしまう。そんな、「夢を見させてくれる」映画の力が偉大であることに異論はないし、山田監督自身、齢90を過ぎてなお、少年のように映画に胸ときめかせ、老い先短くなった今、より強くその喜びと感謝を感じているのだろうと思う。
いや、映画に人生を捧げてきた山田にとってその「映画人生」は、ただ「喜び」と言うだけに止まらない、時に苦く、時に甘酸っぱい、つらい別れや後悔といった経験も沢山あったのだろう。
今、それら全部ひっくるめて、映画とともにあった人生を、映画によって全肯定するようなものを最後に撮っておきたい、映画への愛と感謝を込めて。…という、そういうことなんだろうとは思う。

とはいえ、である。
山田洋次という人はつくづく「鳥の目・虫の目」ということで言えば「虫の目」しか持たない監督であり、しかも「人間」に深く食い込んでいくことなく、あくまでも人物を都合のいい像に仕立て上げることしかできない監督だよなぁと感じざるをえない。
「寅さん」にせよ、この映画の主人公にせよ、社会的に見ればどうしょうもない男だが、どこか情深かったり、憎めないところがあって、そこにクスッとかホロッとかさせられてしまうような人間へのこだわりがあるのは分かるものの、描き方がつくづく単細胞である。

それは時事ネタの入れ方にしても、昔から言えることだ。
冒頭のラグビーにせよ後半のコロナウィルスにせよ、都合いいふうに利用しつつ、それ以上の関わりを持たないところは相変わらずである。
ただ近視眼的に時流に乗っかった者の視点でしかない。描かれる人間たちも、監督自身の視点も。
山田洋次って、いっつもそうだ。
以前観た山田のインタビューで、「戦後、自分がまだちっちゃかった頃、新宿かどっかのボロい屋台のおでん屋のおばちゃんがおでんをくれた、あのおばちゃんに届くような映画を作りたい」(すごく雑な覚書で失礼…)みたいなことを仰っていて、それには感動したものの、とはいえ、こういう映画を観るたび、いやいやいや、「大衆」を舐めてんじゃねぇの?とか思ってしまう。

また、映画の中で出てくる、「ひとつひとつの画を見ると何ということもないのに、画と画をつないだ時に、驚くようなマジックが起きる」という「出水宏(清水宏のことだろう)」評が出てくるが、そういった映画のマジックは山田洋次の映画には感じられない。劇中で「才能あるよ!」と言われるシナリオもひどく凡庸。
いや、たしかに山田洋次自身、自分が助監督時代に関わった映画を再見しながら、そこに映る役者との個人的な思い出が走馬灯のように蘇り、そこでふと隣りあって対話しているような気持ちになることも本当にあるのかもしれないし、それは確かに感動的ではある。そこには、かつて憧れだった大女優だっているのだろう。
ただ、それを見せられても、「は?」と思ってしまったのは、私の人生経験がまだまだ少ないからなのか…。


山田と同じように、自身の「映画人生」の最終ラウンドを意識しながら、映画への愛を、その喜びや切なさや、時事ネタ(?)をもひっくるめて描ききった晩年の大林宣彦作品をふと思い出す時、ここで述べることはしないが、両者の違いに驚かされる。

蛇足ながら付け加えさせていただくと、正直、私は小津も清水も、フランク・キャプラもバスター・キートンも、川島雄三も浦山桐郎も今村昌平だって好きなのだが、何故か昔から、山田洋次作品のよさがまったく分からない。
それは何故なのか。いつか、山田のよさが分かるんじゃないか、と淡い期待を持って、懲りずにこの人の映画を見続けているところがある。
これからも、本当に懲りずに、折に触れて、見ることだろう。
いつか、山田洋次に素直に納得させられたい。
そんな強い想いを抱いていることだけ、最後にここに付け加えさせていただく。