ニューランド

逃げた女のニューランドのレビュー・感想・評価

逃げた女(2019年製作の映画)
4.1
アマチュアよりも下手だし、だらしないし、私のまわりではホン·サンスはファスビンダーと並んで評価は圧倒的に低い。個人的には、処女作等は観てたが·今の韓国で1.2の才人と確信したのは、やはり2003の特集上映だったか(『オー·スジョン』等)。それが現在の世界レベルでも1.2を争う存在とマークしたのは、数年後、『浜辺の女』『ナイト·アンド·デイ』を観た頃からか。その後の(大)傑作は、10本に届くだろう。一時期のゴダールよりも、粗製?濫造なのだ。それがこの2.3年発表が途切れた。本作は来年の日本公開が決まったそうだが、思わずチケットを買ってしまう。
韓国のロメールなんて配給会社が作品の軽さから付けたのだろうが、キャリアの半分くらいまでは、2時間を越える事も珍しくなく、ヌードや絡みも並みにあった、とにかく初期の印象はドロドロと心も肉も泥臭感が強かった(ロメールだって、日本では公開が始まる以前の時期の主人公は多く中年男性だった事を思うと、フレーズは当たってるのか)。ソフィスティスケイトされてきたというより、デジタルにもなってせっかちにストレートに臨む地点に回り道をしないようになっただけにも見える。本作は韓国人特有?の態度(浅ましいへ)豹変の変わらぬイモっぽさ·汚し感を除けば、映画と表現の純度·厳密度を高めてきてて、序盤ドライヤー、後半アントニオーニを想起させるものにまでなってきてる。それを普通にやってて、ズームの前後複数段階(後半速度アップする)や左右パンの限定感がキツくない。オリーブみたいにより細くなったキム·ミニがおんなよりも、一番近しい傍にいてくれてたひとという感じで即暖まる、懐かしい人の存在が詰まってる(道すがら訪ねる先輩二人には、ルームメートの人柄や若いタバコ仲間の存在、年齢と老化·蓄財や出会いの話題、らでどこか不安定もほのぼのと、最後に半ば覚悟の上か会う·かつての恋仇とはゴツゴツしながらも懸案のことを探る真剣さが·と、いいひとだけど·弱いものも見せるに鎧まとわない素直さが、スターや女優の自意識を離れた近しい好感が何とも何にもいえない気分にしてくれる。同時に後述べる特殊でもない今の普通の人間の持つ、つきまとい突き放せない本質的不安の共存。いい人·親しい人とは、そうでない人と違い対面上·鉾を収め無いものと思い込んでるだけの関係?)。野良猫に餌をやる論理·優先度のらち空かぬ話し合いと·当のチャッカリ自己世界の猫、馴染みの「本当に親しかった」?筈の先輩のうちなのに·研ぎすまされ眠れぬ夜や·不思議な立ち入り不可の2階の存在の気掛かり、酔って気紛れで寝てしまった男の執拗さか純情かへの一方的邪険、5年間も1日も空かず常に一緒の夫と·彼が出張となると無意識にフラフラ向かったは先のライバルと取り合った先生的存在の互いに距離と素っ気なさがあるもイチモツ持ち合ってる男(繰返し·反復生活巧者の浸透が無口の‘本気’度を消してたのが、起き上がりかかる)のもと、とへんにミステリアス·意味不可解な所が塗り込まれ滲み出してくる(ラストの挨拶の、女と思えぬぶっきらぼう)が、これまでのようなすっとんきょう·あからさまな夢や現実中のキッカイイメージが介入してくるわけではない、異版の現実が並行相克し合ってるわけでもない、全てが一色の内に透けてくる。
構図にも、窓大小やモニター·スクリーンの浸食感はあるけれど、家具その他はごく普通に鎮座し機能してて、生活感や装飾センスは削がれてて、全てはシンプル·均質に一体化している。昔のように芸術映画志向を広言する人も皆無の時代となったが、ふとこんなのを今に相応しいアートというのかな、と思ったりした、ミニマル·アートなんていうオシャレでもない、そっくりまんま。ちょっと凄いのだが、あからさまな現しかたを放棄して、内へ向けて磨き上げてるだけが弱くも映る。それにしても、映画批評なんてサラッと眺めるだけで気にもしなくなって久しいが、梅本Jr.の落ち着き払った分析力には惹かれる(そうか、本作は時系列の3話構成でもなかったのか、思い当たる。振り返りなんて、いつもの仕草の延長にしか見えなかったのに)。まだ高校生? 蓮見さんなんかを吸収消化しきってるようで、せっかちで早合点なお父さんより大物の感。ライヒャルト上映会で受付で招待されてたのか、名乗ってたのを見かけたが。こちとらは、蓮見さんなんて高校生の頃は(ま、未だに。接する限り、取り巻きと違い、本人はいい人だが。ホン·サンス的に?)、先駆的なんだろうけど、ヘンなオジサンにしか思えなかった。
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