ゆ

国葬のゆのネタバレレビュー・内容・結末

国葬(2019年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

言わずと知れた20世紀の怪物、ヨシフ・スターリンの国葬を舞台とした作品。

ただただ観る限りには本当に何も起こらない、ナレーションすらもない映像。

「鬼才ロズニツァ」と聞いて観る人には、拍子抜けでもしよう作品ではないだろうか。

しかしむしろ、そういった「鬼才」を待つということの欲望すら意識させられる作品だと思う。

この作品の「つまらなさ」を規定しているのは2つの不在だと考える。

1.物語の不在
2.国葬の主体であるスターリンの「不在」

1.の物語の不在に関しては、すでに視聴した人ならわかるように、120分を超えるこの映像に、時系列はあれど物語は存在しない。
強いて言えば最後の1分ほどの字幕のシーンにこの作品に込められた意図が掲示される。
しかしそれとて、最後までこの作品を視聴するような層に対しては「既知の事実」としてすら受け入れられそうな内容ではある。つまり、視聴者にとって新奇性や没入できるようなストーリーがない。

そこで考えたいのが2.のスターリンの「不在」である。
この作品を通して、スターリンを弔うという葬儀の趣旨に反し、スターリンの肉声や映像はほとんど出てこない。
(例外的なものとして、冒頭に登場するスターリンや、途中で棺桶の中にいるスターリンが映されるようなシーンもある。しかし前者はともかく、後者に関しては焦点も当てられず、ただ環境映像の一部のような扱いである)

あれだけ、スターリンの死を悼み、悲しみ、涙し、声を上げる人々の姿を写しているにもかかわらず、だ。

それはつまり、これだけ多くの人々、多くの地域、国、民族を巻き込み、各地で人を動かしたスターリンという「主体」を徹底的に排除して、かつ白黒とカラーの映像を使い分けるほどの色彩の機微を用い、国葬の模様を丁寧に描くという作品の意図こそが、まさに「国にして主体たるスターリンなき国葬」を描いているのではないか。

すなわち、主役であるはずのスターリンはあれだけ恭しく葬られているにもかかわらず、その存在がなくとも「葬儀」の絵は完成されるという、スターリン時代(スターリンの差配ひとつで命が左右される)との差異を、非常に残酷に描いているのである。

しかし、その作品の批評性と同時に、現代に生きる我々にとってはその時間軸は非常に冗長で、眠たくなる作品であることは間違いない、とも思う。

端的に非常につまらない作品であるとして、そのつまらなさは我々が130分ほど、ぼうっとこの作品を眺め、時には眠り、ワインの杯を注ぎ、歯を磨くという中に生まれているという、時間の使い方にこそ生存しているのかもしれない。
(賢しらに言えば、このつまらなさは130分視聴し、自由な言論においてしか成立し得ないのだ)
ゆ