miyu

まともじゃないのは君も一緒のmiyuのレビュー・感想・評価

4.0
ものすごく身に覚えのある、「自分は偽物だな」という感覚。それも、はじめからずっとそれがあるんじゃなくて、むしろこの映画で描かれているように、元々は自分こそがものをわかっているような気分でいて、でもそれが他の角度からの景色が見えたりしていくことによって真ではないのだということに気付いていく。
つまり、見下しているのである。自分が、周囲の人間や物事に対してその軽薄さに「気付いている」側である、と思っているかぎり、自分は偽物にすぎない。本当に尊い感性を持っている人というのは、そういうふうには思わない。自分の外の世界を、すごくまっすぐ対等に、まったくの優劣の評価なしに見ているのである。そういうことに気付いた時、自分こそが醜く、自分が見下していた人たちを含む他のだれよりも至らないものをたくさん持っていたのだ、というような惨めさや恥。次元が全然違うんだ、という反省。
素直な人というのが結局いちばん美しい。そういう人や世界や物事に気付いたとき、そしてその対象と自分との間に大きなギャップがあるのだということを感じたとき、自己卑下をしたり距離を取るという謙虚さの表現のふりをしながらただただ逃避をして変わらずにいるということはとても容易で楽だ。でも、その気付きの度に自分のその偽りに向き合い、自分なりの正直や素直のようなものをしっかりと棚卸ししてまっさらにまっすぐに生きようとするとしたら、もうすでにその人は十分に素直な人間なのである。素直な人としての生のスタートがそこにある。生まれなおすようなものでもあるし、逆に、生まれたてのときには持っていたはずのそういう素直さ以外のものを削ぎ落して生き続けるというようなものでもある。

ふつうや、良くも悪くもそこから外れるようなもの、というのは、比較によってしか定まらない。そんな比較をしているくらいなら、目の前の人目の前の自然目の前の物事に感性や意識を割くことのほうが格段によい。どこかから見ればあなたはふつうだし、別のところから見たらあなたは別格の魅力を持っている。
主人公が最後、自分の恥や未熟さや穢れみたいなものをすっきりと捨てて、ただシンプルに目の前の時間に身をおこうとしている姿に感動したし勇気をもらった。こうして、人がほんとうに解き放たれた自由の中でひとりで立つということこそがなによりもよい世界の作り方であって、そこに必要なものは本当に何もない、と思う。
まっすぐに世界と出会っていきたい。そっちの世界のレイヤーに、自分の生身の身体を置きたい。
とはいえ、そういうふうに考えているかぎり、また世界の知らない側面に出会いうる。あの夫婦たちの存在するレイヤーというのはしんどそうだし虚しいね、と思っている自分で居る限り、世界とまっすぐ出会っているとはいえない。でも大抵の人は、それをいきなり一足飛びにできるわけではない。だからこそ、どんどん知らない世界にショックを受けて自分を変えていく必要があるのである。ずっとずっとフランクに恥をかき続ける必要がある。
そういうことを改めて心に浮かべ留めることができるような、いい物語や人物たちだった。
この映画を見て感じた自分のできる限りの素直さの始まりとして、まずは今自分の目の前にある世界をしっかりと見て、自分のしていることにちゃんと体重をかけて責任をもってやっていこう、と思った。
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